アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2017年 3月 4日
四旬節に入り、御子イエスが地上で過ごされた最後の日々を黙想する季節となりました。イエスは天地万物、そしてわたしたち人間を造られた方が、どのような方かを示すためにこの世に降られました。神様はあわれみ深い父であることを人びとに教え、また特に苦しむ人、病気の人に愛をもって寄り添うことで、父である神のやさしさを示されました。今日はイエスが示された父である神の姿を見つめながら、ごいっしょに祈ってまいりましょう。
聖体のうちにおられる主のみ前で過ごすこの時間、わたしは特にどんな恵みを願いたいでしょうか。だれのために、祈りをささげたいでしょうか。祈りを必要としている人びとを父である神の御手にゆだねて、しばらく思い起こしましょう。
(沈黙)
お祈りしたい意向を主のみ前に差し出して、ローソクをささげましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげ、席にお戻りください。
ここに集まったわたしたちが、主との出会いのときである、この祈りの時間をよく過ごすことができますように願って、歌いましょう。
「聖なる霊よ 愛の火を」2回くり返し
ルカによる福音書のことばに耳を傾けましょう。 (ルカ10.21~22)
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
(沈黙)
今、聞いた部分の前には、イエスが72人の弟子たちを宣教に派遣した場面が描かれています。72人は、喜びのうちに宣教を終えてイエスのもとに帰ってきます。それは、イエスのみ名によって、悪霊が打ち負かされるという体験をしたからでした。イエスは、「悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10.20)と教えられます。
その後、福音書には先ほど読まれたイエスの祈りが記されています。イエスと弟子たちによって告げられる神の国の秘密を信じた人びとは、貧しい人、社会の中で弱く小さいと言われている人びとでした。彼らのように素朴で単純な、幼子のような人びとに神様がご自分を示されることをイエスは喜び、聖霊に満たされて、父である神をたたえています。
ルカによる福音書には、イエスの少年時代のエピソードが描かれています。イエスが12歳になったとき、過越祭のために、両親とともにエルサレムへ行きました。帰途についたとき、両親はイエスがいないことに気づき、その後、律法学者たちと議論しているイエスを見つけました。心配していた両親に対し、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ10.20)と答えます。イエスは、自分を遣わされた方がだれであるか、自分は何のためにこの世にやって来たかを知っていました。イエスはヨセフの大工の仕事を手伝いながら成長し、公生活を始められたときに、父である神のことを人びとに告げるため、宣教活動を始めます。
マタイ福音書の中で、イエスは祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ……』」とおっしゃり、神を「わたしたちの父」と呼ぶように教えます(マタイ6.8~9参照)。
天地万物を造られた神を「わたしの父よ」と呼ぶということに対して、わたしの心にはどんな感情が湧いてくるでしょうか。「いつくしみ深い全能の神様が、お父さんだなんて、うれしいという喜び」でしょうか。または、「悪いことをしていないかどうかを見られているのではないかという恐れ」を感じるでしょうか。このことはその人の両親、特に父親との関係に影響してきます。子どもはだれでも、やさしい、愛情深い父親、母親のもとで成長したいと感じています。しかし、すべての人がそのような環境に生まれてくるわけではありません。完璧な親はだれもいません。ですから、わたしたちは両親との今までの関わりの中で、つらい経験、苦しいことを思い出すこともあるでしょう。そのようなつらい思いから自由になるには、父である神様から愛されているという体験を持つことがとても大切です。神は目には見えませんが、出来事をとおして、周りの人のやさしさ、親切なことばなどをとおして、ご自分の愛をわたしたちに示してくださいます。
そのことを心に留めながら、沈黙のうちに、共にいてくださる神に心を向けましょう。父である神がわたしのお父さんであることを意識して、この時間を味わいましょう。
(沈黙)
父である神が、愛といつくしみをもってわたしたちを造り、この世に存在するものとしてくださったことに感謝して祈りましょう。(『パウロ家族の祈り』p.325)
わたしの神、すべての民とともにあなたを賛美します。
すべての人が、あなたに感謝と礼拝をささげますように。
あなたは、造られたものの中にはあなたの偉大さを、
良心にはあなたの法を、聖書には永遠の約束を書きとめられました。
あなたは永遠に忠実な方、変わることなく愛すべき方です。
愛の父であるあなたのみ声を聞きわけることができるよう、
わたしの知恵を開いてください。
天のいと高きところには神に栄光、善意の人びとに平和。
道・真理・生命である師イエス、わたしたちをあわれんでください。
使徒の女王聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
十字架上のイエス
四旬節のこの季節、わたしたちはイエスのご受難を思い、祈ります。イエスが死刑に処せられる原因の一つとなったのは、まさにイエスが神を父と呼び、自らを「神の子」と述べたことでした(ヨハネ10.22~39参照)。イエスはゲッセマネの園で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14.36)と祈られました。また十字架上では、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、大声で叫んで、息を引き取ります(ルカ23.46参照) 。苦しみの中で「父よ!」と叫ぶイエスの声を、御父はどのような思いで聞き、受け止めておられたのでしょうか。人となられた神の子イエスは、人間として極限の苦しみを体験しました。このことをとおして、父である神様は、わたしたちに永遠のいのちを与えようと計画されました。御子は、十字架上で人としての生涯を終え、ご自分のいのちを御父にお返しになります。このいのちの奉献を思いながら、沈黙のうちに祈りましょう。
(沈黙)
父である神が、最愛の子イエスのご受難によって、わたしたちに永遠のいのちを与えてくださったことを感謝して祈りましょう。(『パウロ家族の祈り』p.213 7番)
師イエス、
わたしのためにいのちをささげてくださった、
かぎりなく柔和なみ心に、感謝と賛美をささげます。
あなたの御血、御傷、むち打ち、いばらの冠、十字架、うつむいたみ顔は、
「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」と
わたしの心に語ります。
羊飼いは羊がいのちを得るため、ご自身をささげました。
わたしもあなたのためにいのちをささげ尽くすことを望みます。
いつでも、どこでも、すべてにおいて、
栄光のためにわたしを使ってください。
いつも、わたしが「み旨のままに」といえますように。
あなたと人びとに対する愛の火を、わたしの心に燃え立たせてください。
イエスのみ心、いっそう深くあなたを愛することができますように。
わたしたちの必要を知っておられる父であり神様に信頼して、「主の祈り」を唱えましょう。
いただいた恵みに感謝し、いつもわたしたちと共にいてくださる主に信頼して歩んでいくことができますようにと願って歌いましょう。
「主はいのちを」① ③
祈りましょう。
いつくしみ深い神よ、キリストによって、あなたはご自分がすべての人の父であることを示してくださいました。あなたのいつくしみに感謝して祈ります。四旬節の歩みを始めたわたしたちを導き、日々あなたのことばによって生きる者としてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
+父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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