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聖人カレンダー

2月3日 福者ユスト高山右近殉教者

1553ごろ-1615

 高山右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きたキリシタン大名です。1553(天文22)年ごろ、摂津高山に武士であった父高山飛騨守友照と母マリア(洗礼名)の間に生まれました。

 父高山友照は、宣教師ロレンソの導きで、ダリオという霊名で洗礼を受け、妻子や家臣など150名程が受洗し、当時10歳ほどであった長男右近はユストの霊名を受けました。

 飛騨守はキリシタン保護者であった和田惟の配下となり、芥川城を与えられました。その後高山父子は、1571(元亀2)年ごろには、高槻城に入りました。1573(元亀4)年、ダリオ飛騨守が高槻城主となりました。ダリオ飛騨守は翌年隠居して、右近が跡を継ぎ21歳で高槻城主となりました。高槻には日本庭園に囲まれた荘厳な聖堂が建設され、オルガンティノ神父の報告によると、ここで4千人もの人たちが洗礼を受けました。  右近の福音的な生き方は、多くの武士に影響を与えました。牧村政治や蒲生氏郷、黒田官兵衛孝高、瀬田掃部らを洗礼へと導きました。

 右近は、1585(天正13)年に播磨国明石に移封となり明石城主となり、明石教会を建設しました。1587(天正15)年7月、秀吉は突如「伴天連追放令」を発布し、右近に信仰を捨てるようにせまりましたが、右近は領地と財産をすべて捨ててその信仰を守り続けました。

 明石を出た右近は、能古島に渡り、その後小西行長の領地であった淡路島、小豆島、南肥後(熊本県 宇土、八代、天草)に隠れ住みました。

 1588(天正16)年、前田利家の招きにより、客将として加賀(金沢)に入りました。右近はこの地で、金沢城の修築や新丸の築城、東西内惣構堀の工事、高岡城の築城などを行いました。また、自らを「南坊」と名乗り、熱心に宣教活動を行いました。

 しかし、1614(慶長19)年に徳川家康によって「キリスト教禁止令」が発布され、宣教師と信徒は追放されることになりました。右近も、金沢から長崎に護送され、11月、家康の命によって、右近はマニラへ追放されました。

 マニラでは、右近の信仰をたたえて大歓迎を受けましたが、船旅の間に体調を崩していた右近は、1615(慶長20)年2月3日に63歳で亡くなりました。
 2017年2月7日、ユスト高山右近は大阪で列福されました。


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