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聖人カレンダー

8月の聖人

1日 聖アルフォンソ・リゴリ司教教会博士

1696年-1787年

 アルフォンソは、イタリアのナポリの貴族の家に生まれ、幼いころから母親に信仰深く育てられた。語学力に優れた彼は、小学生のころからラテン語、ギリシャ語を学んだ。法律の勉強をして、17歳には法学博士の学位を取得し、弁護士となって多くの人びとを助けた。しかしある日、必ず勝つと思われた訴訟事件に、自分のミスで負けてしまったことを機に、彼は法廷から退き、社会的地位を捨て、聖職者になる決心をした。

 1726 年に司祭となったアルフォンソは、有名な説教家となり、1730年にスカラに女子贖罪主会(レデンプトリスチン)を創立した。1732年には数名の同志とともに男子レデンプトール会の創立に着手し、内外からの試練に遭いながらも、1749年に教皇から正式に認可された。創立から42年間にわたり、総長として会の指導に献身し、その後13年間は、教区の司教として務めた。その間、倫理、修徳、司牧神学に関する本を数多く書いた。日本語に翻訳されたものに『完徳のしおり』『聖体訪問』などがある。また彼は、カトリック倫理神学の体系化の完成に貢献し、その著書『倫理神学』は、不朽の名著として知られている。

 日本においてレデンプトール会は、代々木、鎌倉、諏訪、舞鶴、宮津、吹田、長崎、鹿児島、徳之島で司牧、施設の運営にあたり、女子の修道会レデンプトリスチン(厳律至聖贖罪主女子修道会)は、鎌倉、長崎、西都にある。



2日 聖エウセビオ(ベルチェリ)司教

286年-371年

 エウセビオは、イタリアのサルデェニアで生まれ、ローマで教育を受けた。344年ころにベルチェリの司教に任命され、司祭たちのための修道会を創設して、共同生活と霊的生活を奨励した。

 当時、アリウス派による異端(キリストの神性を否定する)が広まり、ときの皇帝もそれを擁護していた。エウセビオは、神学者アタナジウスや、他の聖職者とともに異端に反対したため、パレスチナに追放された。 361年に皇帝が亡くなり解放されたが、その後も彼は仲間とともにアリウス派と闘い、生涯を正統信仰の擁護にささげた。



2日 聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭

1811年~1868年

 ユリアノは、1811年、フランスのラ・ミュール市の貧しい職人の子として生まれた。賢い少年だったので、聖体を敬っていた信仰深い母は、ユリアノが司祭になることを望んでいた。しかし、貧しかったので学校に行かず、手に職をつけようと働いた。ユリアノ自身も司祭になることを望んでいたので、仕事を終えてから学生の友人から勉強を教わっていた。

 18 歳のとき、無原罪の聖母修道会の司祭の助けで同会に入ったが、遅れをとりもどそうとした猛勉強で体をこわし退会した。聖母の助けを願い、23歳であこがれの司祭になった。その5年後マリア会に入会し、聖体に対する信心を深めていった。リオン市近郊の聖母マリアの聖堂でよく祈っていたが、何回となく聖母の出現を受けた。聖母は、聖体を敬う修道会を創立するようすすめたので、マリア会を退き同志3人と聖体会を創立した。聖体会は、聖体の永続礼拝、信者たちの聖体拝領の準備、信徒の黙想会や聖体礼拝を指導した。ユリアノは、ピオ10世教皇が提唱した聖体信心会や聖体大会の先駆者として活躍したが、力を使い果たし、57歳のとき大病にかかり亡くなった。



3日 聖ニコデモ

1世紀ごろ

 ニコデモは、イエスの時代に生き、ユダヤ人議会の議員、ファリサイ人の指導者であった。彼は、エルサレムでイエスを訪問し、神の国を見るとは何を意味するかを尋ね、イエスから「霊によって新しく生まれなければならないこと」を教えられた(ヨハネ3.1-10)。ニコデモは、すべてを捨ててまでイエスに従うことはしなかったが、イエスが逮捕されたときには、逮捕の不当を衆議会で訴えた唯一の人物であった。また彼は、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体埋葬を手伝った。



4日 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭

1786年-1859年

聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭

 ビアンネは、南フランスの農家に生まれ、信仰深い両親のもとで育てられた。当時、フランスは革命の混乱期にあり、司祭の不足で満足な信仰教育がなされてなかった。それに心を痛めたビアンネは、司祭になることを決意し、神学校に入った。家が貧しくて教育を受ける機会に恵まれなかったビアンネにとって、勉学に追いついてゆくことは大変なことであったが、苦労のすえ、1815年に司祭に叙階され、アルスの主任司祭に任命された。

 ビアンネの慈愛溢れる教えと良い模範は、不熱心な人びとばかりであった村をキリスト教の精神に満ち溢れる村に変えたのだった。彼の徳の評判は広まり、多くの国から、人びとが祝福やゆるしの秘跡を求めてやってきた。最後の1年間は10万人の巡礼者があったといわれている。



5日 聖アフラ殉教女

?-304年

 アウクスブルク(現ドイツ)で生まれたアフラは、娼婦であったが、キリスト教迫害で追放された司教が彼女の母の家にやってきたときに改心した。そして今までの生活を償い、迫害のさなかにあっても、どんな苦しみをも忍んだ。ある日、彼女はキリスト信者であることを訴えられ、ローマの神々に犠牲をささげるように命じられたが、「わたしの体は罪に汚れていますから、苦しんでもかまいません。しかし、偶像を拝んでわたしの心を汚すことはできません」と言って信仰を守りとおし、火刑に処せられた。彼女の母も彼女を埋葬しようとして殺されたという。
 アウクスブルク司教座聖堂にあるアンベルガーの画像が有名である。



6日 聖ユスト殉教者/聖パストル殉教者

4世紀ごろ

 キリスト教の迫害が盛んなころ、スペインにおいても総督デシアンが、信仰を棄てなければ、死刑にするとの宣告を出した。
 まず子どもたちを脅かして信仰を棄てさせることが容易であると考えて、子どもたちを捕えた。その中にユストとパストルという2人の少年がいた。彼らは、むちで打たれるなど残酷な仕打ちを受けたが、互いに励まし合いながら決して信仰を捨てなかったため、アルカラ市で首をはねられた。その後、信者たちが2人の死体を発見して、彼らが殉教した場所へ埋葬したといわれる。2人は、アルカラとマドリッドの守護の聖人とされている。



7日 聖シスト2世教皇と同志殉教者

3世紀

 シスト2世教皇(在位257~258)は、前教皇ステファヌス1世(在位254~257)とカルタゴ(アフリカ)の司教チプリアヌス(在職 249~258)との間に生じた洗礼に関する論争によって、ローマと他の教会との分裂を修復しようと努力した。しかし、彼が教皇になったのは、バレリアヌス皇帝によるキリスト教迫害の時代だった。8月6日、カリストのカタコンベ(地下墓地)で典礼儀式の説教中に、助祭のヤヌワリオ、マニュス、ビンセンシオ、ステファノと共に捕らえられ、斬首された。他の2人も捕らえられ、隣の墓地で処刑され、ラウレンシオ助祭は拷問を受け、4日後に殺された。

 そのすぐ後、9月14日に斬首された聖チプリアノは、彼らの殉教に力を得て、アフリカのキリスト教徒を励まして、こう語っている。「死よりも不滅の生命のことを考えよう。信仰と勇気をもって神に身を捧げたのだから。証しをたてるときは、恐れるよりも喜ぶように。わたしたちは殺されるのではなく、栄光の冠を受けると知っているのだから」と。



7日 聖カエタノ司祭

1480年-1547年

 カエタノは、イタリアのヴィチェンツァに生まれ、信仰深い家庭で育った。法律を学んだ後、36歳のときに司祭となった。

 オラトリオ神愛会の一員として教会の内部改革に貢献し、福祉活動に励み、またヴェネチアに病院を設立した。1523年にローマに行ったカエタノは、キエティの司祭カラッファ(のちの教皇パウロ4世)とともに、貧しい人びとへの奉仕と救いを目的とする修道会を創立した。この会は土地の名前から「テアティノ会」と呼ばれた。しかし、カエタノは 1527年にローマから追われ、ヴェネチアとナポリで活動した。



8日 聖ドミニコ司祭

1170年-1221年

 ドミニコは、スペイン北部、カスティリアの裕福な貴族の家に生まれた。25歳で司祭に叙階され、オスマの司教座大聖堂付参事会の一員となり、司教の顧問役として聖アウグスチヌスの戒律に基づいた共同生活をした。

 そのころ、フランス南部ではアルビ派の異端が広まっていた。この派は、善悪の2神の存在を説き、極端な物質軽視、肉体の蔑視を教えていた。そのため、オスマの司教はドミニコを選んで、異端者の回心にあたらせた。ドミニコは貧しいキリストに倣い、施しを受けながら説教をして各地を回った。彼の説教は、人びとを感動させ信仰を取り戻させた。そして必ずロザリオの祈りを勧め、その結果この祈りは教会全体に広まった。1206年に、フランスに女子教育を目的とするラ・ブルイエ修道院を設立した。その後、同志の司祭が彼のところに集まってきたので、1215年に、教皇に対して、説教、司牧、教育による宣教を目的とする修道会の設立を申請し、翌年に「説教兄弟会」としてドミニコ会が公認された。修道会は発展し、多くの偉大な神学者を輩出し、現代に至っている。



9日 聖オズワルド(ノーサンブリア)殉教者

604年-642年

 616年に、ノーサンブリアの王であった父が、イーストアングルの王に殺されたため、オズワルドら3人の王子はスコットランドに逃亡し、アイオナの修道院で育てられ、そこで洗礼を受けた。
 その後2人の兄弟たちが、イギリスのカドウェル王に殺されたとき、オズワルドは軍隊を率いて王と闘った。そのとき、十字架を作らせ、兵士たちとともにひざまずいて祈り、勝利を得たといわれる。

 オズワルドは、父の王座を取り戻して王位に就いた。その後アイオナの修道士を宣教師としてノーサンブリアに招き、派遣されたアイダン神父にリンディスファーンの島を与えて宣教の援助をした。しかし異教徒マーシア王との戦いに破れ、戦死するが、そのとき「神よ、彼らの魂をあわれみたまえ」と言って亡くなったという。オズワルドはイギリスの偉大な英雄として崇められている。



9日 聖テレサ・ベネディクタ (十字架の)おとめ殉教者(エディット・シュタイン)

1891年~1942年

 エディット・シュタインは、1891年10月12日ユダヤ人としてドイツのブレスラウ(現ポーランド・ブロツワフ)で生まれた。この日はユダヤ教の大祝日である贖罪の日であった。

 彼女は何事にも全身全霊を注ぎ、情熱に燃え立つ女性に成長し、現象学の創始者、エドムンド・フッサールに師事し、優れた博士論文を発表し、ドイツ哲学界の新進気鋭の哲学者として頭角をあらわすようになった。無神論者を自称していた彼女は、30歳のころ十字架のキリストに出会い、カルメル会の聖女アビラの聖テレサの『自叙伝』を読んだことがきっかけで、真理を悟り、カトリックの洗礼を受ける。42歳でケルンのカルメル会修道院に入会し、テレジア・ベネディクタ・ア・クルチェ(十字架に祝せられし者)という修道名を受け、カルメル会での修道生活を送りながら、宗教哲学、霊性について多くの著作を執筆した。

 ナチスの人種政策でユダヤ人への弾圧が始まり、修道会は彼女をオランダに移動させたが、1942年、逃亡先の修道院から強制収容所へ連行され、アウシュビッツでその生涯を終えた。

 カトリック教会がユダヤ教との和解、ホロコーストに対する謝罪の姿勢を示す中で、エディット・シュタインは、アウシュビッツに象徴される現代の精神的砂漠、闇、悪のただ中から、来るべき神への信仰をあかしする聖女、現代の殉教者として清冽な光を放っている。



10日 聖ラウレンチオ助祭殉教者

3世紀

 ラウレンチオは、スペインのラウレンチオに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。学校を卒業してから、助祭として教皇シクスト2世や司祭たちに仕え、また教会の財産を管理し、貧しい人びとに救援物資を分け与えた。当時スペインは、ヴァレリアヌス皇帝の迫害下にあった。258年に教皇が死刑を宣告されると、彼も教皇のあとを追って死刑場に行き、なぜ自分も殺さないのかと尋ねた。ラウレンチオは、教皇とともに殉教することをいとわなかったのである。このようなことがあって、彼が教会財産の大部分を貧しい人びとに分け与えると、ローマ総督は彼を捕え、教会財産目録の提出を命じた。ラウレンチオが、大勢の貧しい人びとを連れて行き、「この人びとこそ、わたしたちの財産です」と言ったが、真意を理解できない総督は激怒し、彼を焼き殺した。

 彼の墓の上に、聖ラウレンチオ大聖堂が建てられている。彼は、火傷・火災・熱病から守ってくれる保護者であり、また菓子製造人、料理人の守護の聖人とされている。



11日 聖クララおとめ

1194年-1253年

聖クララおとめ

 クララは、イタリアのアシジの名門貴族の家に生まれた。彼女は、その名が「光り輝くもの」を意味するように、清らかで、信仰深い女性として育った。
 18 歳のときに聖フランシスコと出会い、彼のキリストに倣う徹底した生き方に感銘を受け、自らも全財産を捨てて彼に従い、ポルティウンクラの教会で修道女となった。

 そして1215年に、同志たちとともに、ベネディクト会から提供されたサン・ダミアノ聖堂に女子修道会「クララ会」を作った。彼女の徳を慕って多くの女性が集まり、クララの母や姉妹も修道院に入った。クララは修道院の院長として、聖フランシスコの精神のもとに会員を導き、生涯をささげた。

 日本では、上越、桐生、小郡に聖クララ会があり、観想生活を送っている。



12日 聖タルチジオ助祭殉教者

3世紀

 タルチジオは、ローマ皇帝ヴァレリアヌスの迫害時に、ローマ貴族の家に生まれた。彼は、キリスト教の信徒が、迫害にあっても信仰を守り抜く姿に心を打たれ、洗礼を受けた。そして、助祭となって司祭を手伝い、教会に奉仕し、捕えられている信者たちのもとに聖体(ミサによってキリストの体に変えられたパン)をたびたび運んだ。そのため、彼も捕えられて殺された。彼は、聖体の殉教者と呼ばれる。



12日 聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタル修道女

1572年-1641年

 ヨハンナは、フランス、ディジョンの貴族の家に生まれた。1593年にシャンタル男爵と結婚し、4人の子どもに恵まれ、幸福で信仰深い家庭生活を送っていた。
 28歳で夫に先立たれ、その後は祈りと病人や貧しい人びとへの奉仕に専念した。
 1604年のフランシスコ・サレジオとの出会いを機に、彼の霊的指導のもとで修道生活への望みを抱くようになった。

 フランシスコは、若い女性や未亡人が入会することができる修道会を創立したいと思っていたので、ヨハンナと他の同志を誘って修道生活を始めさせ、「聖母訪問修女会」を創立した。ヨハンナは同会の総長に選ばれ、観想生活と慈善活動を統合するよう会員を導き、83の支部修道院を設立した。



13日 聖ポンチアノ教皇 聖ヒッポリト司祭殉教者

230~235在位/170年ごろ-236年

 ポンチアノが230年に教皇の座についたとき、教会は分裂していた。その発端は、聖書についての深い知識と思想の持ち主、3世紀で最も有名なローマの神学者、ヒッポリトだった。彼は、旧約聖書のダニエル書や雅歌の注解書、また3世紀のローマ教会の生活と典礼について述べた『聖ヒッポリトの使徒伝承』を書いた。

 ヒッポリトは3世紀の最も有名なローマの神学者であるが、最初の「対立教皇」でもあった。ヒッポリトは教皇ゼフィリーノの教えを拒否し、その後継者の教皇カリストにも反対して、自分に追従する者たちから対立教皇として推挙された。

 しかし、ローマ皇帝マクシミアヌスの迫害を受け、教皇ポンチアノはヒッポリトとともに逮捕されサルデェニア島に流されて、重労働の刑を受けた。そこでヒッポリトは再び信仰を取り戻して教会に立ち返り、教皇ポンチアノと同じ信仰に結ばれて親交を深めたという。ポンチアノは、解放への希望がないことを悟り教皇職を退いたが、劣悪な環境の中で捕らわれの身のまま死亡した。ヒッポリトが亡くなった後、迫害が終わってから、2人の遺体はローマにもち帰られた。8月 13日は、この移転を記念している。

 その後、ヒッポリトの殉教を伝える物語が多く広まったと言われる。



14日 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者

1894年-1941年

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者

 コルベは、ポーランドの織物職人の家に生まれ、信仰深く育てられた。16歳のときにコンベンツァルのフランシスコ会に入り、1918年に司祭となった。ローマで、6人の同志とともに「無原罪の聖母の騎士会」という信心会を創立して、聖母マリアに対する信心を広めることに尽くした。その後、ポーランドに帰って月刊誌『無原罪の聖母の騎士』を発行。

 1930年ゼノ修道士ら5人とともに来日し、長崎で同信心会と印刷所を開いた。月刊誌『聖母の騎士』を発行するなど宣教活動に励み、多くの人びとに感化を与えた。『聖母の騎士』は現代でも多くの購読者を得ている。

 1937 年、コルベ神父はポーランドのニエポカラノフの修道院長に選任され、日本を去る。その後、第二次世界大戦の勃発により、ナチス・ドイツのゲシュタポに捕えられ、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。そこで、死刑を言い渡された妻子ある士官の身代わりを申し出て、餓死牢で注射を受けて亡くなった。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)というキリストの愛を実践した現代の殉教者である。

 日本におけるコンベンツァル聖フランシスコ会は、東京、瀬戸、春日井、西宮、長崎、湯布院、奄美にある。



15日 聖母の被昇天

聖母の被昇天

 イエス・キリストの死と復活の後、聖母マリアは使徒ヨハネのもとで生活し、使徒たちに見守られて亡くなり、天に上げられたといわれている。生涯を罪の汚れなく過ごした聖母マリアの被昇天を、教会は伝承として守ってきた。1950年、教皇ピオ12世は、信仰箇条として「神の無原罪の御母、終生処女であるマリアは地上の生活を終えて、霊魂と同時に身体をも天の光栄に上げられた」と宣言した。



16日 聖ロクス

1350年ごろ-1378年ごろ

 ロクスは、生涯についてははっきりしていないが、言い伝えによると次のとおりである。

 ロクスは、フランスのモンペリエの総督の息子として生まれ、20歳のころ両親を亡くし、その財産をすべて貧しい人びとに与え、ローマに巡礼に出た。このころ、イタリアでは国中にペストが流行し、多くの人びとが治る術もなく苦しんでいた。ロクスは患者の看護に尽くした。彼が、患者の上に十字架の印をすると、多くの人びとが治ったといわれる。しかし、彼自身もペストにかかってしまった。ピアチェンツァの近くの森で死を迎えようとしたところ、犬が食物を持ってきたり、傷をなめたりしてくれたので、病気が治ったと伝えられる。その後故郷に戻ったが、当時フランスは戦争で分裂していたために誰もロクスとは分からず、スパイとして捕えられ獄死したという。

 中世においてロクスは、伝染病よけの保護の聖人として、最も有名な聖人であった。彼の絵は犬といっしょに描かれている。



16日 聖ステファノ(ハンガリー)

970/975年~1038年

 ステファノは、20代の若さで父の後を継ぎ、その後42年間、王としてハンガリーを治めた。彼は、政治家としても、統率者としても、武将としても申し分のない君主だった。国の基礎を固めると同時に、キリスト者としても信仰が篤く、国内の教会の組織化に力を尽くして教区の設立し、聖堂の建設を進め、教会の発展に貢献した。
 クリュニー修道院の修道士たちの協力を得て建てたこれらの聖堂は、今も国民から親しまれ大切にされている。



17日 聖ヒアキントゥス

1185年ごろ-1257年

 ヒアキントゥスは、ポーランドに生まれ、クラクフ、プラハで学問を修めた。

 彼の叔父であるクラクフ司教イヴォとともにローマを訪れたとき、聖ドミニコと出会い、感銘を受けて、1218年にドミニコ会に入った。その後、宣教師としてクラクフに派遣され、説教をしてこの地の人びとを回心させた。彼は、リトアニア、ボヘミア、さらに北のノルウェー、デンマーク、スウェーデン、またイギリスにまで行き、各地に修道院を創立して、宣教活動に励んだ。

 ヒアキントゥスは「北方の使徒」と呼ばれている。彼は、ポーランドの守護の聖人として聖ヤッコとか聖ヤチェクとも呼ばれ親しまれている。



18日 聖ヘレナ皇太后

255年ごろ-330年ごろ

 小アジアのビチニア州の貧しい家に生まれ、ローマ将軍クロルスと結婚してコンスタンティヌスを生んだ。クロルスは、その後、政治的理由からヘレナと離婚し、マクシミアヌス皇帝の皇女と結婚した。

 クロルスが亡くなった後、コンスタンティヌスが後継者となり、312年に皇帝マクセンチウスとの戦いに勝って、ローマ皇帝となった。母ヘレナには皇太后アウグスタの尊号を贈り、貨幣に彼女の像を刻ませた。ヘレナは、63歳のときに洗礼を受けてキリスト信者となった。自らは質素な生活を送り、教会を建て、貧しい人びとを助けた。

 324年にはエルサレムに巡礼し、カルワリオの丘に大きな教会を建て、そこでキリストの十字架を発見した。十字架の一部はエルサレムに保存され、他は諸教会に分けられた。ヘレナは、トリーア、バーゼルの守護の聖人として知られている。



19日 聖ヨハネ・ユード司祭

1601年-1680年

 北フランスのノルマンディに生まれた。イエズス会の学校で学び、1623年にオラトリオ会(聖フィリポ・ネリが創立)に入り、司祭となった。疫病が流行したときには、献身的に病人の看護にあたった。1641年にカーン市に「愛徳の聖母の姉妹会」を創設し、生活の乱れた女性たちの救いに力を注いだ。しかしこの事業は理解されず、苦しい立場に立たされた。その後、オラトリオ会を出たヨハネは、聖職者のために「イエズス・マリア会」を創立したが、この会も各方面からの反対にあい、教皇からの認可を受けるために努力をした。彼は、試練にあっても力強く説教し、生涯を人びとの救いのためにささげた。



20日 聖ベルナルド修道院長教会博士

1091年-1153年

 ベルナルドは、フランスのブルゴーニュの貴族の家に生まれ、1112年に4人の兄弟と27人の友人を誘って、シトーのベネディクト会に入った。この修道会は労働と禁欲を厳守し、当時の修道院改革の中心をなしていた。2年後に、ベルナルドはクレルヴォーに新しい分院を建てるために派遣され、そこで亡くなるまで院長を務めた。
 クレルヴォー修道院の名声は高まり、ヨーロッパに68の修道院が設立され、また彼の弟子の中から、多くの偉大な人物が出た。彼は、修道院内のことにとどまらず、教会の組織上の諸問題の解決に尽力し、神の栄光と人びとの救いのために生涯をささげた。



21日 聖聖ピオ10世教皇

在位1903年-1914年

 ピオは、イタリアのヴェネチアの近く、リエーゼの農家に生まれた。村の学校を出た後、1850年にパドバの神学校に入り、58年に司祭となった。その後、マントヴァの司教、枢機卿、ヴェネチアの大司教を務めた。1903年に教皇に選ばれた彼は、「すべてをキリストにおいて新たにすること」をモットーに、20世紀初頭の混乱した社会を、キリストの精神に従って建て直そうと力を尽くした。近代主義を排斥し、伝統的価値を擁護するとともに、典礼の刷新、教会法典の編纂、聖職者の教育の強化に貢献した。彼は強固な意志と知性に恵まれ、その業績と徳の高さから人びとに敬われた。
 しかし第一次世界大戦の勃発にあたっての平和回復のための努力は実を結ぶことなく、その心痛のため病気になって亡くなった。



22日 聖シンフォリアノ殉教者

2-3世紀

 シンフォリアノは、ガリア(フランス)地方の、オータン市の貴族の家に生まれた。その地は、シベルという女神が特に崇められ、ローマ総督のヘラクリウスも、すべての神々の母として拝むように市民に命令した。しかし、シンフォリアノは、唯一の神だけを拝むと言ってそれを拒み、むち打ちの刑に処せられても最後まで信仰を守りとおしたので、死刑を言い渡された。
 5世紀の中ころ、彼の墓の上にオータン市の司教が記念聖堂を建てた。シンフォリアノは、ローマ時代のガリア地方で最も有名な殉教者のひとりである。



22日 天の元后聖マリア

 この記念日は1954年、教皇ピオ12世が発表した回勅“Ad Caeli Reginam”(アド・チェリ・レジナム)によって定められた。この回勅のなかで、教皇は「マリアは神の母であり、新しいエバとしてイエスのあがないの業に参与した。また、卓越した完徳と、力強い取り次ぎによって、天の元后と呼ばれるにふさわしい方である」と述べている。以前は5月31日だったが、典礼暦の改訂後、聖母被昇天の8日目にあたる8月22日に祝われるようになった。
 聖書の中には、キリストが王として描かれている箇所がいくつかある。(マタイ27.11、黙示録19.16など)マリアは大天使ガブリエルから、生まれる子が「いと高き方の子」であり、ダビデの王座が与えられることを告げられた。そのときから、マリアはイエス・キリストの母となり、生涯にわたって特別にキリストの救いの業に協力した。
 4世紀の教父、聖エフレム(306年ごろ-373年)は多くの賛歌を残し、マリアを「元后、女王」と呼んで、たたえている。その後、この称号は教父や教会博士たちによって好んで用いられ、人びとに親しまれるようになった。
 教会憲章は、「原罪のいかなる汚れにも染まらずに守られていた汚れないおとめは、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主からすべてのものの女王として高められた。それは、主たる者の主であり(黙示録19.16)、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよく似たものとなるためであった」(59)と述べている。天にあげられたマリアは、王であるキリストの栄光にあずかり、女王としてたたえられ、すべての人のために恵みを取り次いてくださっている。



23日 聖ローザ(リマ)おとめ

1586年-1617年

 ローザは、ペルーのリマに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。当時、リマはスペインの植民地で、貧富の差が大きかった。彼女は貧しい人びと、特に子女の援助に献身的に働いた。ある日、ローザは、自分の生きる道は社会にとどまって人びとに仕えることだと悟り、ドミニコ会の第三会員となった。病弱であったが、いつも明るく、忍耐深い人であり、多くの人びとから尊敬された。
 彼女は、南アメリカで生まれた最初の聖人であり、「ロサ・デ・サンタ・マリア」として知られている。家庭内の問題、傷害に際して、彼女の取り次ぎを求める人も多い。



24日 聖バルトロマイ使徒

1世紀

聖バルトロマイ使徒

 バルトロマイは、イエスの12使徒の1人である。別名、ナタナエルとも呼ばれ、イスラエルのカナに生まれ育った。
 友人フィリポの勧めでイエスと出会ったとき、イエスは「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(ヨハネ1.47)とバルトロマイのことを言った。この出会いをきっかけに、彼は弟子としてイエスに従った。

 伝承によると、イエスの復活後、彼はインドとアルメニアで宣教し、アルメニアで殉教した。彼の遺骸は、983年にローマに移され、聖堂に安置された。職人の守護の聖人とされている。肖像画は、皮をはがれて殉教したことから、それを象徴して腕にコートをかけているように描かれている。日本では、キリシタン時代にとても尊敬されていた聖人であり、最初のキリシタン大名大村純忠が洗礼を受けた際に、バルトロマイを守護の聖人に選んだといわれる。



25日 聖ルイ

1214年-1270年

 ルイ9世は、12歳でフランス国王に即位した。幼い彼に代わり母ブランシュが王権を代行したが、1236年からは彼が実権を握り、以後35年間国を治めた。彼は、深い信仰をもった憐れみ深い王であり、国内の経済の安定を図るとともに、各地に貧しい人びとや病人のために施設をつくり、教会を建て、またソルボンヌ大学を発足させた。彼は、シトー会、フランシスコ会、ドミニコ会のよき理解者・保護者であった。

 晩年、イスラムに占領されたエルサレムを奪還しようと十字軍を起こしたが、途中チュニスで伝染病にかかり、亡くなった。彼はヨーロッパ中世の理想的君主とされている。



25日 聖ヨセフ・カラサンス司祭

1557年-1648年

 ヨセフ・カラサンスは、1557年スペインのペラルタ・デ・ラ・サルで、7人兄弟の末っ子として生まれた。 彼は大学で法学と神学を学び、26歳のとき司祭となった。バルセロナ大学で法学と神学の博士号を取得した彼は、ローマに行った。彼は貧しい子どもたちが学校に行くことができず、町に放置されているのを目にして、心を痛めた。彼らへの教育の必要性を感じたヨセフは、何人かの同志たちと無報酬で学校を始めた。子どもたちが増え、大きな建物が必要になったとき、教皇クレメント8世(在位1592-1605)が援助し、その援助は教皇パウロ5世(在位1605-1621) のときまで続いた。しだいにヨセフと同じ志を持つ青年たちが集まり、ヨセフは1600年に「エスコラピオス修道会」を創立し、彼は初代総長となった。

 しかし、貧しい人びとへの教育に対する人びとの無理解や偏見がヨセフを苦しめた。当時、学問は貴族や裕福な人びとのものであると考えられていたからである。彼は、「すべての人びとが幸福になるためには、それぞれに与えられた才能を伸ばすことが大切であり、そのために教育が必要である」ことを訴えた。また、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイはヨセフの友人で、科学が神の考えと矛盾しないと信じていた彼は、ガリレオの研究を手伝った。教会の中で地動説に反対する人がほとんどだったため、人びとは衝撃を受け、修道会も分裂していった。

 同志であったマリオ・ソッツィ神父は、ヨセフが総長としてふさわしくないと主張し、ヨセフは後退し、マリオ神父が総長となった。マリオ神父の後継者である、ケルビニ神父もヨセフを認めず、2人が和解したのは、1648年ケルビニ神父が臨終の床に伏しているときであった。ヨセフは人びとの無理解に苦しんだが、「正しいことは正しい」と言う勇気を持った彼は、多くの人から尊敬された。1648年8月25日に彼は亡くなったが、その死後、共同体は再構築され、1669年修道会として再び歩みを始めた。

 ヨセフは1767年、教皇クレメンス13世によって、聖人の位に上げられた。

 日本では、東京、横浜、京都にエスコラピオス修道会があり、幼児、青少年の教育に携わっている。



26日 聖ゼフィリーノ教皇

在位198年-217年

 ゼフィリーノが教皇時代に起こった、セプティミウス・セウェールス皇帝による迫害は、ローマよりもその周辺の地域で激しかった。しかし彼が殉教者といわれるのは、キリスト教の神学者たちの間に起きた大きな争いによって、心臓を痛めたことによる。彼は、助祭カリスト(次期教皇)の支援により、厳しさと愛徳とを常に保った教皇であった。ゼフィリーノは、学者ヒッポリトから、誤った教えを信じて離れて行く信者たちを引き留めることができないと批判されもしたが、必要だと自分が判断したときには厳しくすることができたといわれている。



27日 聖モニカ

331年-387年

 モニカは、北アフリカのダガステで生まれ、キリスト教徒の両親に育てられた。パトリチオというローマの官吏と結婚し、3児の母(長男が聖アウグスティヌス)となるが、40歳のときに夫に先立たれた。彼女は、息子アウグスチヌスの乱れた生活に心を痛めていた。383年に、イタリアに行くアウグスティヌスに同行した彼女は、ミラノでアンブロジオ司教の弟子となり、彼の助けを得て、息子の回心のために祈りをささげた。モニカの熱心な思いが実って、アウグスティヌスもだんだんとキリスト教に心が傾き、386年に回心して洗礼を受けるに至った。彼女は亡くなる前、息子に「わたしがもう少し生きていたかったのは、死ぬ前にカトリック信者としてのあなたを見たかったからです。神はこの恵みをわたしにくださいました。この世でこれ以上することがあるでしょうか」と言ったといわれる。

 アウグスティヌスは、著書『告白録』のなかで、母の思い出を美しく描いている。



28日 聖アウグスチヌス司教教会博士

354年-430年

 アウグスチヌスは、北アフリカのダガステで、ローマ官吏の父と敬虔なカトリック信者である母モニカの間に生まれた。アウグスチヌスは成績が優秀で、カルタゴの大学に留学し、真理探求に情熱を燃やした。しかし、マニ教に傾倒し、ある女性との間に子どもをもうけ、父となったのだが、結婚は許されず、彼の内面に葛藤を生んだ。そして383年にイタリアに行き、ミラノの司教アンブロジオと出会い、キリスト教の洗礼を受けた。彼の回心には、母モニカの祈りと支えがあったといわれる。母の死後、彼は修道生活をしようと故郷に帰り、祈りと研究の生活を始めた。391年に司祭に、396年にはヒッポの司教になり、以来、説教や著作活動でキリスト教の真理を広め、異端と戦った。彼のキリスト教への魂の遍歴を記した『告白録』と『神の国』は、不朽の名著として知られ現在も読まれている。

 アウグスチヌスは、キリスト教内外の思想界に偉大な影響を与えた、西洋古代最大の教父である。

 「愛しなさい。そして、あなたが望むことをしなさい」(聖アウグスチヌスの言葉)



29日 洗礼者ヨハネの殉教

洗礼者ヨハネの殉教

 祭司ザカリヤとエリザベトの間に生まれたヨハネは、ユダの荒れ野で預言者として活躍し、人びとに神の国の到来と悔い改めを説いた。ヨルダン川で、人びととともにイエスにも洗礼を授けた。当時、ヘロデ・アンティパスがこの地方を治めていたが、彼は弟の妻ヘロディアを自分の妻とするなど、非難されるべき生活をし、ヨハネから戒められていた。あるとき、ヘロデの誕生日の宴席で、踊りを披露したヘロディアの娘サロメに、ヘロデはほうびとして望むものは何でも与えることを約束した。ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘にヨハネの首を望ませた。ヘロデは、人びとが信頼しているヨハネを殺すことに心を痛めたが、公の場で誓った約束であったため、ヨハネの首を斬らせた。

 ヨハネは、キリストに先立つ預言者としての使命を、生涯果たしたのであった。



30日 聖フェリクス司祭 聖アダウクト殉教者

3-4世紀

 4世紀、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が始まったころ、司祭であったフェリクスは信仰を守りとおし、死刑の宣告を受けた。死刑場に連れて行かれる彼の態度は、信仰深く落ち着いており、その姿は傍観していたある男性の心を打った。この男性は「わたしも、この人が信じている神に従っている者です。信仰のためなら命をささげます」と大声で叫び、すぐにローマ兵士から捕えられた。誰もこの人の名を知らず、彼は「アダウクト」(追加された者の意)と呼ばれた。

 2人の殉教者は、オスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作成された殉教者のリストには、「フェリクスとアダウクト」とだけ記録されていたといわれる。のちに、彼らの墓は作り直された。



31日 聖ライムンド・ノンナート

1204年ごろ-1240年

 ライムンドは、スペインのカタロニアで生まれた。母が難産のため亡くなったので、ライムンドは帝王切開で取り出され、そのため「ノンナート」(ラテン語で「生まれそこない」)という名前が与えられた。生涯に関する記録はほとんど分からないが、ペトロ・ノラスコが創立したメルセス会の修道会に入ったといわれている。北アフリカやスペインで、イスラムの捕虜となっているキリスト教徒の解放のために活動した。命を落としそうになったことも度々あったが、ライムンドは彼らを救うために命がけで使命を果たした。スペインに戻ったライムンドは、教皇グリゴリオ9世によって枢機卿に任命された。教皇は彼をローマに呼んだが、その旅の途中、カルドナで病に倒れて亡くなった。



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