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聖人カレンダー

10月の聖人

1日 聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

1873年-1897年

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

 テレジアは、フランス、アランソン市に住む信仰深いマルタン家の末娘として生まれた。1877年、母の死を機に、父と4人の姉とともにリジューに移った。テレジアは、2人の姉たちのいるリジューのカルメル会に入ることを望んだが、年が若いという理由で入会はすぐには許可されなかった。

 1888年4月、彼女の熱い望みがかなえられて入会してからは、全てを神に委ね、自分がいかに小さい者であるかを認めながら、祈りの道に励んだ。修道院の生活の中で、彼女は「教会の心、活動の泉である愛」という自分の使命を見つけた。1896年に肺結核が悪化し、苦しみの多い闘病生活での霊的な体験は、彼女をますます神の愛に開かせた。

「神よ、わたしはあなたを愛します」という言葉を残し、24歳の若さでこの世を去った。
 院長から自叙伝を記すようにと言われて書いた『自叙伝』は、今日でも世界の多くの人びと々に読まれている。また、このほかに書簡集『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』が残されている。
 祈りをもって宣教したテレジアは、宣教の保護者といわれている。



2日 守護の天使

 カトリック教会は、昔から聖書に基づいて、神は天使を造られ、一人ひとりを守っていると信じてきた。「あなたには災難もふりかかることがなく天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」 (詩編91.10-12)など、聖書に守護の天使のことが記されている。

 また、それぞれの人に守護の天使がいるということは、イエスの教えの中にも見られる。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ18.10)。また、天使はイエスがゲッセマネの園で苦しまれたときに、イエスを力づけた(ルカ22.43)。
 このように天使を人間の保護者にしたことは、神の愛のしるしといえる。



3日 聖ジェラルド(ブローニュ)

895年ごろ-959年

 ジェラルドは、フランス、ブルゴーニュの貴族の家に生まれ、軍隊的雰囲気の中で育てられた。ベルギーのナミュール王国に仕えたが、名誉、享楽を求める風潮の中で、ジェラルドは宗教的な生活への招きを感じた。

 918年、王国から使命を受けてフランスに行き、聖デニス修道士が指導する修道生活をかいま見て、自分もその会員になる決心をし、司祭となって、修道院の改革を手伝った。11年後、彼が自分の領地であるブローニュに修道院を創設すると、領民の多くが彼のもとに集まり、そこは他の修道院の良い模範となっていった。ジェラルドの名声がいたるところに広まると、ロレーヌの公爵からギスレイン修道院の改革を任せられた。その修道院が聖ベネディクトの会則に従っていたところから、彼は自分の真の使命を悟り、その後20年間は、ベネディクト会則に従い、18もの修道院を創設し、改革し、導いた。ジェラルドは、神の道具となって修道院の改革のために生涯をささげた人として知られている。



4日 聖フランシスコ(アシジ)修道者

1181年-1226年

聖フランシスコ(アシジ)修道者

 フランシスコは、イタリア、アシジの裕福な織物商の家に生まれた。フランシスコは、快楽を求め自由奔放な青春時代を過ごしたが、騎士になりたいと望み、戦場に赴いた。そこで病気にかかって、夢の中でイエス・キリストに出会い、回心してイエスに従う決心をした。持ち物を貧しい人びとに与え、自らは粗末な服をまとい、ローマ中を巡礼した。アシジに戻ったフランシスコは、壊れた聖堂で祈っていたとき、教会を建て直すようにとのキリストの声を聞き、すぐに聖堂の再建を始めた。フランシスコの父は、教会のために家の財産が費やされることを嫌い、フランシスコが財産を受け継ぐことを放棄する法的手続きをとり、勘当した。

 しかしフランシスコはよりいっそうキリストの言葉に従い、同志を集め、清貧と愛の生活を続けて多くの人びとを感化し、当時の乱れた教会を改善していった。その後ローマに行き、教皇インノセント3世から許可を得て、1209年に「小さき兄弟会」、後の「フランシスコ会」を創立した。

 すべての被造物をとおして与えられる神の恵みを悟ったフランシスコは、神に感謝と賛美をささげた『太陽の賛歌』を作った。彼の物語は、『小さい花』という本に伝えられている。また、彼はクリスマスの夜に馬小屋を飾って祝った最初の人であり、その習慣を広めた。

 1224年、フランシスコは聖痕(キリストが十字架に付けられたときに受けた5つの傷)を受けたといわれている。その生涯は、キリストのしもべとして貧しく愛にあふれるものであり、現代まで世界中の人びとに大きな影響を与え続けている。



5日 聖プラチドと聖マウルス

6世紀

 当時のイタリアでは、聖ベネディクトの評判が高く影響が大きかったので、多くの親は子どもの教育を彼のもとで受けさせたいと望んでいた。貴族の息子であるプラチドは7歳のときに、またローマ元老院議員の息子であるマウルスは12歳のときに、ベネディクトのもとに預けられ、ともに修道院で成長し、ベネディクトの弟子となった。

 マウルスは、スビアコの湖に落ちたプラチドを救ったという話が伝えられている。 後に、プラチドはシチリアのメッシーナに修道院を創立するために派遣され、そこの修道院長となるが、546年に海賊に襲われ、殉教したといわれている。



6日 聖ブルーノ司祭

1030年ごろ-1101年

 ブルーノは、ドイツ、ケルンの貴族の家に生まれた。レンスの大学で学び、1055年に司教座聖堂参事会員になり、神学の教授を務め、また教区の教育顧問に任命された。1075年にレンスの大司教マナセから教区の秘書局長に選ばれたが、マナセが大司教の地位を金で買収していたことを知り、それを告発したため免職された。しかし教皇はマナセを破門し、後任の司教としてブルーノに要請した。彼はこれを断わり、1084年6人の同志とともに、シャルトルーズという地で、祈りと労働による非常に厳しい生活を始めた。これがシャルトルーズ会(カルトゥジオ会)の始まりである。彼らは、清貧、祈祷、労働、学問を基礎とした修道生活を送った。

 その後ブルーノは、グルノーブルの司教フーゴから支援を受け、また、かつての教え子であった教皇ウルバヌス2世から顧問として招かれてローマに行ったが、ドイツ皇帝ハインリッヒ4世に追われ、教皇とともに南イタリアに逃れた。カラブリアの荒野のラ・トレに第2の修道院を作り、そこで厳しい生活を始め、そこからシャルトルーズの仲間たちに手紙を送り励ました。

 シャルトルーズ会は、1688年に教皇より正式に認可され、聖人や学者を輩出した。



7日 ロザリオの聖母

ロザリオの聖母

 1571年、全ヨーロッパはキリスト教を滅ぼそうとするトルコ帝国の脅威にさらされていた。それに抵抗するために、ベニス、ゼノア、スペインの国々は教皇のもとで同盟を結び、ギリシャのレパント沖でトルコ軍の艦隊を全滅させ、ヨーロッパを守り勝利を得た。この勝利は武力によるものではなく、ロザリオの祈りを聖母マリアにささげたことによるといわれた。そのため、時の教皇ピオ5世は、勝利の日を「ロザリオの聖母マリアの祝日」と定めた。

 ロザリオの祈りは、主の祈りと天使祝詞と栄唱を唱えながら、キリストと聖母マリアの生涯を黙想する祈りである。
(参照:『目からウロコ ロザリオの祈り再入門』



8日 聖ペラギア

4世紀

 ペラギアは、シリアのアンティオキアの踊り子で、その美貌と名声から、享楽的な生活を送っていた。あるときエデッサの司教ノンノの説教を聞いて深く感銘し、これまでの生活を改めてキリスト教の洗礼を受けた。自分の財産を貧しい人びとに施し、聖地エルサレムに巡礼に出た。ペレギアは、オリーブ山の洞くつで祈りと苦行の生活を送り、生涯を閉じた。それを知った人びとは、彼女のために盛大な葬儀をしたといわれている。



9日 聖ディオニジオ司教と同志殉教者

3世紀

 ディオニジオは、イタリアに生まれた。250年ころ、教皇から、ガリア地方宣教のために6人の宣教師とともに派遣された。彼らの熱心な活動によって、その地方の多くの人びとがキリスト教徒となったが、ローマ総督はこのことに憤慨し、ディオニジオと他の2人を捕えて投獄した。彼らは苦しい牢獄生活ののちに斬首された。モンマルトルの「殉教者の丘」は、3人が殉教した所である。彼らを記念して建てられたサン・ドニの修道院の教会堂には多くの人びとが訪れ、巡礼の中心地となっていった。この教会堂は何度か再建され、今日まで残っている。
 ディオニジオは、フランスの保護の聖人の一人とされている。



9日 聖ヨハネ・レオナルディ司祭

1542年-1609年

 ヨハネ・レオナルディは1542年、イタリアのディエチモで生まれ、薬屋で働いていた。その後、司祭になるために勉学をはじめ、1572年司祭に叙階された。彼は病院や刑務所で働く信徒のグループを作り、トリエント公会議で提唱された改革の精神を受けて、教区司祭から成る修道会を設立しようと計画した。

 これに対して政治的な理由から、居住していたルッカから追放されるなど多くの反対に遭うが、1583年に、Clerks Regular of the Mother of God(神の母聖職者会 仮訳)を創立し、トスカーナにあるルッカの司教、グレゴリオ8世によって認可された。また創立の際、聖フィリポ・ネリ(5月26日)やエスコラピオス修道会の創立者である、聖ヨセフ・カラサンス(8月25日)が協力した。

 1595年、修道会は、教皇クレメンス8世によって最終認可され、ヨハネはトスカーナ州のヴァッロンブローザとカンパーニャ州のモンテ・ヴェルジネの修道院改革を教皇から命じられた。

 彼は伝染病患者の看護にしているとき、自らも感染し、10月9日にローマで亡くなった。1938年、教皇ピオ6世によって列聖された。



10日 聖フランシスコ・ボルジア司祭

1510年-1572年

 フランシスコは、スペインのガンディアの貴族ボルジア家の子孫として生まれ、信仰深く育てられた。国王カルロ5世に仕え、王妃の勧めで彼女の友人と結婚した。カタルニア総督を務めて後、父の後を継いだ。フランシスコは、キリスト者として成長するにつれ、生涯を神にささげたいと修道生活への望みを強くした。1546年に妻が亡くなり、子どもたちも独立して後、彼はイエズス会の創立者である聖イグナチオの指導を受け、イエズス会に入り司祭となった。

 フランシスコはスペインの管区長に任命され、教会の改革に力を尽くした。後に、ローマでイエズス会第3代目の総長となり、会の発展に貢献した。会員をアメリカ、ポーランド、メキシコなどに派遣し、ローマのグレゴリア大学をはじめ各地に多くの学校や寮を創立した。偉大な働きをなしたにもかかわらず、彼は決して高ぶることなく謙遜で、生活は質素だった。フランシスコは、最も活動的な教会人の一人とされている。



11日 聖ブルーノ司教(ケルン)

925年ごろ-965年

 ブルーノは、ドイツ皇帝ヘンリーと聖マチルダの末子として生まれた。幼いときにユトレヒトの教区神学校で学び、その後父の弟の皇帝オットー1世のもとで教育を受け、940年にはオットーの宰相となった。950年に司祭になり、3年後にケルンの大司教に任命されて、司教区内の教会や修道院の改革、および司祭や信徒の教育に尽くした。また政治家ロレーヌ公爵としても、神聖ローマ帝国の政策を平和的に推進するなど貢献した。聖職者であり政治家でもあったが、決して矛盾することなく、神のため人びとのために生涯をささげた。彼が、ケルンに建てた聖パンタレオン修道院は、新しい建築様式 ― ロマネスク時代の表現をもたらし、今日までその美しさを残している。



11日 聖ヨハネ23世教皇

1881年-1963年(在位1958-1963)

聖ヨハネ23世教皇

 教皇ヨハネ23世(アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ)は、1881年11月25日、北イタリア郊外ベルガモのソット・イル・モンテの農家に生まれた。

 幼いころから司祭へのあこがれを持ち、1892年にベルガモの神学校に入学した。神学校時代の14歳から書き始めた信仰の記録「魂の日記」は、生涯書き続けられた。
 1904年8月10日、ローマのサンタ・マリア・モンテ・サント教会において、22歳で司祭に叙階された。翌年、ベルガモの新司教ジャコモ・マリア・ラディニ・テデスキ師の秘書となった。
 第一次世界大戦が勃発し、イタリア戦線がはじまった1915年に招集を受け、最初は衛生兵として、その後は従軍司祭として軍の病院に配置さた。

 1921年にバチカンに呼ばれ、イタリアの福音宣教事業評議会の会長として働き、1925年に教皇ピオ11世からブルガリアの教皇使節に任命された。1935年にトルコとギリシャの教皇使節に、1944年には教皇ピオ12世からパリに教皇大使として派遣された。
 1953年に枢機卿に任命され、ベネチア総大司教として着座した。

 1958年10月28日、ピオ12世の後を継いで、76歳で教皇に選出された。
 4年と7ヶ月の短い在位中、エキュメニズム(教会一致)を目指し英国教会大主教をはじめてバチカンに招いた。さらに、東西冷戦の解決を模索し、平和の実現のために働いた。

 また、教会の刷新のために力を注ぎ、1962年10月に第2バチカン公会議を開幕した。
 しかし、第2バチカン公会議の終了を待たずに1963年6月3日、聖霊降臨の日に帰天した。84歳であった。

 2000年9月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福され、2014年4月27日教皇フランシスコによって聖人の列に加えられた。



12日 聖ウィルフリド司教

1620年-1700年

 ウィルフリドは、ノーサブリアの領主の家に生まれ、リンディスファーンに学び、その後ノーサブリアの王女の援助でローマで勉学を続け、司祭となった。ノーサブリアは、ケルト教会のキリスト教国であった。ケルト教会とローマ教会は、復活祭の日についても異なる意見を持っていたため、663年に復活祭の日を制定するウィットビーの教会会議が開かれた。ウィルフリドは、ローマ教会の復活祭を決める方法は、聖ペトロから出ているものだと主張して、ローマの習慣を認めさせた。その後ヨークの司教に任命されると、カンタベリーの大司教と意見が対立し、追放された。ローマ教皇によって司教に戻ったが、再びその地位を追われた。最後にヘクサムの司教になり、亡くなるまでその務めを全うした。



13日 聖エドワード王

1003年-1066年

 エドワードは、イングランド王、エゼルレッド2世の子として生まれた。1013年に、イングランドがデーン人カヌートによって征服されたため、エドワード王子は亡命して、フライとノルマンディで教育を受けた。

 1042年、エドワードは、デーン人を撃退したイングランドの国民からイングランド王として迎えられ、即位した。王は、人びとの間にカトリックの信仰を広め、教会・修道院を建て直したりした。またイングランドの教会とローマ教皇との関係改善に務め、教皇レオ9世のもとでの教会会議に司教を派遣したり、教皇使節を受け入れたりした。政治的にも、慈善事業など国家の再建に力を注ぎ、善政を行った。王は、慈悲深く、祈りの精神を大切にし、いつも罪を悔い、ゆるしの秘跡を熱心に受けたので、「告解王」と呼ばれた。ロンドンにあるウェストミンスター寺院はエドワードが建てたもので、イギリス王の戴冠式の場となり、歴代の王の墓所となっている。



14日 聖カリスト1世教皇殉教者

在位217年-222年

 宮廷奴隷であったカリストは、主人から預った多額の金を無くしてしまい、恐ろしさのあまり逃げ出したことから、公金横領の罪に問われ、捕えられた。一時は赦されたものの、彼がキリスト信者だということが分かると、サルディニアの鉱山に送られた。その後、キリスト教に寛大な皇后マルチアの計らいにより、自由の身となり、ローマに戻った。彼は、時の教皇ゼフィリノから目をかけられて助祭となり、教会全体の監督を任せられた。教皇が亡くなった後、カリストは16代目の教皇となり、キリスト教の宣教に力を注いだ。彼は、キリスト教徒に対する暴動中、虐殺されたといわれる。



15日 聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

1515年-1582年

聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

 テレジアは、スペインのカスティリア州のアビラに生まれた。19歳のとき、高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問などに襲われた。しかしこの苦しみをとおして、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をした。

 1562年、本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めた。彼女の改革に反対する人びとも多かったが、十字架の聖ヨハネなどの援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック教会改革の原動力ともなった。

 テレジアは、多くの本を書いたが、中でも自分の神秘生活を著わした『完徳の道』、『霊魂の城』は、今もなお多くの人びとに読まれている。シエナのカタリナ、幼きイエスのテレジアとともに、女性としてはただ3人の教会博士の中に数えられている。「イエズスのテレジア」「大聖テレジア」「アヴィラの聖テレジア」とも呼ばれている。



16日 聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ

1647年-1690年

聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ

 マルガリタは、フランスのブルゴーニュのロトクールに裁判官の娘として生まれた。8歳のときに父を亡くし、修道院で教育され、彼女も修道女となることを望んだが、11歳のときに重い病にかかり、家に戻って4年間の闘病生活を送った。22歳のころに、いくつかの縁談が持ち上がったが、マルガリタは修道者となることを選び、1671年にパレーの訪問修道会に入った。彼女はどちらかというと、動きが人よりも鈍く、いろいろな面で苦しんだが、忍耐深く修行した。

 1673年に、彼女が祈っているとキリストが現われ、「ごらんなさい。人びとを愛するために多くの苦痛を忍んだわたしの心を。それなのに多くの人びとは、この愛に対して冷淡で、受けた恵みを忘れています」と言われ、「み心の信心」を広めるように命じられた。初めは、多くの反対にあったが、次第に「み心の信心」は広まり、マルガリタの死後、この信心は全世界に広がった。1856年、教皇ピオ9 世によって「み心の祝日」が定められた。



16日 聖ヘドビッヒ修道女

1174年-1243年

 ヘドビッヒは、ドイツのアンデックス出身で、ダルマチア(現在のクロアチア)の侯爵の家に生まれた。彼女はハンガリーの聖エリザベト(11月17日)の叔母に当たる。12歳のとき、ヘドビッヒはシレジア(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の侯爵であり、ポーランドの王家の家長であるヘンリー1世と結婚した。幸せな結婚生活を送ったが、7人の子どものうち、3人は幼いとき、1人は落馬して亡くなった。

 彼女の敬虔さ、賢明さは国の政治にも影響を与え、当時の周辺国における権力争いを憂い、ヨーロッパに平和が訪れるよう尽力した。またチッテンゲンにシトー会の修道院をはじめ、多くの観想修道会、病院が彼女によって立てられ、こうしてドイツ文化がシレジアに広まった。後に、ヘンリー1世の土地分割に不満だった王子と兄弟の間で争いが起こり、ヘドビッヒの心を痛めた。彼女は、多くの時間を犠牲と祈りにささげ、愛徳のわざを熱心に行った。

 ヘンリー1世が1238年に亡くなると、ヘドビッヒはシトー会の修道院で生活し、修道者ではなかったが、多くの犠牲と自己放棄、病人や貧しい人を助けて隣人愛を実践した。神との親しさを求め、内的生活においても熱心に励んだ彼女は、周囲の人びとから「聖人」と言われるほど模範的な生活を送った。

 彼女は1243年10月15日に修道院で亡くなり、彼女の死後多くの奇跡が起こった。1266年、教皇クレメンス4世によって列聖された。



17日 聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者

35年ごろ-110年

 イグナチオは、シリアのアンチオケに生まれた。司教となったが、ローマ皇帝トラヤヌス帝のキリスト教迫害時代に死刑の宣告を受け、シリアからローマに護送された。その間に、7つの書簡を残した。5つは、途中寄港した町の信徒たちに、6番目は聖ポリカルポに、7番目はローマ教会にあてて書いたものである。その手紙から、彼が厚い信仰をもち、殉教によってキリストと一致することが最高の望みであったということなどが示されている。

 その手紙で、町の教会は司教を中心としたものであり、ローマ教会は他の教会よりも特別な「教会の頭」としての役割をもっているなど、キリスト教会の組織やキリスト者の生活について、述べられている。

「あなたたちの体を神の神殿として保ちなさい。一致を愛し、分裂を避けなさい。
イエス・キリストが御父に従われたように、イエス・キリストに従いなさい。」
                     聖イグナチオ(アンチオケ)



18日 聖ルカ福音記者

1世紀

聖ルカ福音記者

 ルカは、新約聖書の中の第3の福音書と使徒言行録の著者である。聖パウロの手紙によると、ルカはギリシャ人の医師であった。またパウロの第3と第4宣教旅行に同行したことが示されている(使行16.10、20.6)。その後、パウロが2度目に逮捕されてローマに滞在していたとき、ルカだけは彼とともにいた。(2テモテ4.11)

 ルカ福音書がギリシャ語で書かれ、巧みで美しい表現に彩られていることからも、彼が高い教育を受けていたことが分かる。ルカは特にキリストの優しさを浮き彫りにし、善きサマリア人、ザアカイ、放蕩息子など、差別されている人びとを題材とした話は、独特のものである。また、キリストの幼年時代をいちばん詳しく書きとめ、聖母マリアが果たす役割を強調した。

 聖パウロの死後、ルカの活動について確かではないが、主にギリシャで宣教し、そこで殉教したと伝えられている。後世の教会の伝承によれば、ルカは画家でもあり、聖母マリアとイエスを描いたということから、ルカは、医師と画家の保護者とされている。



19日 聖パウロ(十字架の)司祭

1694年-1775年

 パウロは、イタリア、ピエモンテ地方オヴァダの商人の家に生まれ、信仰厚く育てられた。1720年、自分の使命は、キリストの受難に示された神の愛を人びとに伝え、その苦しみを自分たちの生活とする修道会「御受難会」を創立することであると悟った。33歳でに司祭に叙階され、43歳になったとき、仲間とともに修道会の誓願を立てた。「十字架につけられたキリストを宣教する」をモットーに説教をして回り、多くの人びとを感動させ、信仰に立ち返らせた。その後、1771年に女子修道会も創立し、12の修道院を建てた。

 彼は、「イエス・キリストのご受難と聖母の苦しみ、それはわたしの唯一の希望です」と言って静かに息をひきとったといわれる。



19日 聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者

17世紀

 聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者は、1642年から1649年にかけて、カナダで殉教した8人のフランス人イエズス会士たちである。

 1636年、イザーク・ジョーグ神父は「カナダの先住民族の人びとに、福音を知らせたい」と、ヨハネ・ブレブーフ神父、そして仲間といっしょにカナダのケベックに出発した。彼らは命の危険にさらされることも覚悟の上で、現地のイロコイ族、ヒューロン族の文化を尊重しつつ、彼らと生活をともにした。また、ヒューロン語を学んで、カテキズムや辞書を編纂するなどして、宣教した。

 ヒューロン族はたびたびイロコイ族と戦い、ジョーグ神父はイロコイ族に捕らえられ、13ヶ月投獄された。彼は仲間たちとともに、村から村へと連れて行かれ、拷問を受けた。また、ヒューロン族の改宗者が拷問を受けて、殺害されるのを目の当たりにした。

 その後、オランダからの思わぬ助けによって、ジョーグ神父は拷問の傷を受けた体で、フランスに帰国した。神父は人びとから英雄として迎えられたが、彼は「ヒューロン族のために働きたい」という夢を捨てきれず、数ヶ月後またカナダに旅立った。

 しかしカナダでは部族間の争いが絶えず、8人のイエズス会士たちは、イロコイ族に捕らえられて、残酷な拷問の末に殉教した。彼らの証しはイロコイ族の人びとの心に刻み込まれ、こうしてキリスト教はカナダの地から消え去ることはなかった。そして、10年後にキリストの教えは人びとから受け入れられるようになった。

 この8人の勇気ある宣教者たちは、1930年に教皇ピオ11世によって列聖され、教皇ピオ12世は、「カナダの保護聖人」と定めた。



19日 福者ティモティオ・ジャッカルド司祭

1896年-1948年

福者ティモティオ・ジャッカルド司祭

 1896年1月13日にクネオ県のナルツォーレに生まれた。彼は12歳のとき、ナルツォーレに派遣されたアルベリオーネ神父と出会った。当時、助任司祭だった神父は、信心深く、賢明で活発なジャッカルドに深い印象を受け、神父の世話でアルバ神学校に入学した。出版の使徒職に興味を持ち、1917年、アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ修道会に入会し、2年後に司祭に叙階された。

 柔和で勤勉、忍耐深かった彼は、記事の執筆、編集をはじめ、志願者たちの養成、会計係や院長の役も担った。修道会の初期は、人びとからの無理解と経済的困難に遭遇したが、アルベリオーネ神父の片腕となって、兄弟たちを導き、修道会の土台を築いていった。特にマリアへの深い信心を持ち、謙虚で従順な彼は皆から愛された。

 アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会の聖座法による認可にあたって、父親のように献身した。

 1948年1月12日、師イエズス修道女会が教皇直轄修道会として認可されたが、このころ、彼は急性白血病と診断された。12日後の1月24日、アルベリオーネ神父やシスターたちの見守るなか、祈りのうちに天の国へと旅立った。

 1989年10月22日、聖パウロ修道会創立75周年の年に、ローマの聖ペトロ大聖堂にて、教皇ヨハネ・パウロ2世により、列福された。



20日 聖ヨハネ(カンチオ)

1390年-1473年

 ヨハネは、ポーランド、クラクフ市の名門の家に生まれ、幼いときから信仰深い両親のもとで育った。クラクフ大学で哲学、神学を学び、司祭に叙階されると、母校の教授となった。彼は、信仰に裏づけられた深い学識をもち、司祭生活の模範を与えようと努める熱心な教育者であり、学生たちに多大な影響を与えた。また、クラクフの街の貧しい人びとのことを常に心にかけ、彼らの友として行った奇跡や施しについては、様々な話が伝えられている。

 ポーランドの保護の聖人として親しまれ、尊敬されている。



21日 聖ヒラリオン

291年ごろ-371年ごろ

 ヒラリオンは、イスラエルのカザに生まれ、15歳のときに洗礼を受けた。その後、エジプトの砂漠の隠遁者、「修道者の父」といわれる聖アントニオのもとに行き、弟子となった。ヒラリオンの名声が伝わるようになると、彼を慕って多くの人が訪れるようになった。彼はアントニオに迷惑をかけてはならないという謙虚な気持ちから、もっと人里離れたところに退き、修行に専念した。

 その後、彼は修道院を建て、貧しさに徹して生き、貧しい人びとの救いと聖書の研究に生涯をささげたといわれている。



22日 聖ペトロ(アルカンタラ)司祭

1499年-1562年

 ペトロは、スペイン、アルカンタラの貴族の家に生まれた。サラマンカ大学で学び、1515年にフランシスコ修道会厳修派に入り、司祭となった。その後、各地の修道院長を歴任し、修道会の原初の精神に戻ろうと、裸足で説教をしながら、イタリアからメキシコ、東インド諸島、ブラジルなどを回った。その後、ペドロソの小修道院で厳格な改革派の基礎を固め、アルカンタラ派と呼ばれるようになった。会員は極度の清貧のうちに生きた。

 著書『祈りと黙想論』は、キリストの苦難と終末のときに思いをはせることを勧める書である。1826年に、ブラジルの守護の聖人とされた。



22日 聖ヨハネ・パウロ2世教皇

1920年-2005年(在位1978-2005)

聖ヨハネ・パウロ2世教皇

 聖ヨハネ・パウロ2世教皇(カロル ユゼフ・ヴォイティワ)は、1920年5月18日に、ポーランドのワドビチェで、職業軍人であったカロル・ボイティワと教師であったエミリア・カツォルブスカの次男として生まれた。8歳の時母を、3年後には医師であった兄エドモンドを失い、父によって育てられた。

 クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻したが、1939年にポーランドにドイツ軍が侵攻し大学を閉鎖した。1941年に父も亡くなったため、生活のために採石場で(1940~1944年)で、その後ソルヴェイの化学工場で働いた。

 司祭職への召命を感じ、1942年に、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教がひそかに開いていた“地下神学校”に入る。それと同時に、彼は演劇活動に打ち込んだ。

 戦後、再開したクラクフの大神学院とヤゲロニカ大学神学部で勉学を続け、1946年11月1日、サピエーハ大司教によって司祭に叙階された。
その年、ローマのアンジェリクム大学に派遣され、1948年に神学の博士号を取得した。

 1948年にスターリン体制下の祖国・ポーランドに戻り、クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、1951年まで大学生担当司祭を務めた。

 1958年7月4日に、教皇ピオ12世により、38歳でクラクフの補佐司教に任命された。また、第2バチカン公会議に定期的に出席し、『現代世界憲章』編纂に、重要な役割を果たした。

 1964年に、教皇パウロ6世によってクラクフの大司教に任命された。同年6月26日には、枢機卿に就任された。

 1978年10月16日、第264代のローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ2世となった。同月22日に着座し、在位は26年5ヶ月に及ぶものとなった。
 全世界の教会の牧者、平和の使者として遂行し「空飛ぶ教皇」と言われ、在位中、数多い旅行を行った。
 19821年2月、ローマ教皇としてはじめて日本を訪れ、東京・広島・長崎に赴いた。

 また、14の回勅、15の使徒的勧告、11の使徒憲章、45の使徒的書簡を発表し、『希望のかなたへ』などの5冊の著書を残した。

 2005年4月2日、ローマで帰天した。84歳であった。
 2011年5月1日、ベネディクト16世によって列福され、2014年4月27日教皇フランシスコによって聖人の列に加えられた。



23日 聖ヨハネ(カペストラノ)司祭

1386年-1456年

 ヨハネは、イタリア、カペストラノのドイツ人男爵の家に生まれたが、6歳のときに政治的争いで父や兄を亡くした。その後、ペルージャで法学を学び、判事となったが、判決の恨みが原因で投獄されるという経験をし、1415年にフランシスコ会原始会則派に入った。司祭となってからは、イタリア各地を始め、オーストリア、モラヴィア、ボヘミア、ドイツなどで説教をして巡り、教会・修道院改革に力を尽くした。

 1453年コンスタンチノープル陥落後、人びとにトルコに対する十字軍の必要性を説き、自らも十字軍に加わり1456年ベオグラードでトルコを破った。



24日 聖アントニオ・マリア・クラレ司教

1807年-1870年

 クラレは、スペイン、カタロニア地方の織物工の信仰深い家庭に育ち、幼いときから司祭になることを望んでいた。22歳のときに神学校に入り、1835年に司祭となった。その後ローマに行き、一時はイエズス会員になることを決意したが、カタロニアに帰って、説教をしながらスペイン各地を巡った。

 クラレの説教は分かりやすく、多くの人びとを惹きつけ、回心に導いた。また彼は、宣教のためのより効果的方法は何かと研究し、特に字を読めない人にも分かるように印刷物、著作に絵を入れるなどの工夫をし、宣教に力を注いだ。彼の著作は100以上に及び、内容も教義、道徳、修徳のほかに、教育、歴史、音楽、医学など多くの分野に渡った。

 1849年に、クラレは宣教を目的とする「クラレチアン宣教会」を創立し、翌年には、キューバの大司教に任命された。数年間教区の司牧のために熱心に働き、1857年に、スペイン女王の聴罪司祭としてスペインに招かれ、その務めを果たした。また、1869年12月から開かれた第1回バチカン公会議に出席し、教皇の不可謬性について主張するなど、生涯をキリストのためにささげ尽くした。



25日 聖クリスピノと聖クリスピニアーノ

?-287年ごろ

 クリスピノとクリスピニアーノ兄弟は、ローマの貴族の家に生まれ、熱心なキリスト信者であった。キリスト教迫害が始まったとき、全財産を捨ててゴール地方に逃げ、宣教師となり、日用の糧のためには靴職人として働いた。彼らは熱心に宣教し、多くの人がキリスト信者となった。しかし、ローマ皇帝マクシミリアヌスがその地を訪れたとき、クリスピノらに反対する者たちが彼らを訴えたため、2人は捕えられ、拷問にあった。そして2人が決して信仰を捨てないことが分かると、皇帝から斬首の刑を命じられ、殉教した。

 彼らが特にイギリスで敬われるようになったのは、シェイクスピアの著書『ヘンリ5世』の影響によるといわれる。靴製造者、製皮業者の保護の聖人とされている。



26日 聖エヴァリスト教皇

在位99年-107年ごろ

 エヴァリストは、ベトレヘム生まれのギリシャ系ユダヤ人であった。キリスト信者になってローマに行き、そこでクレメンス教皇の後を継いで、第5代の教皇となった。

 エヴァリストは初代教会の組織作りに貢献し、ローマを小教区に分け、7人の助祭を任命し仕事を分担させた。

 彼の遺体は、バチカンの聖ペトロの墓の近くに埋葬されている。



27日 聖フルメンチオ司教

300年ごろ-380年ごろ

 フルメンチオは、レバノン南部のテュロスの商人で哲学者であるメロピオスの弟子であった。同じく弟子であったエデシオスとともに、師弟はインドへの航海に出たが、途中アビシニア(現在のエチオピア)で捕えられた。メロピオスは処刑され、キリスト教徒であったフルメンチオとエデシオスは、アクスム王のもとに奴隷として連れていかれた。その後、2人は王の行政を助け、キリスト教の宣教をする機会を与えられた。王の死後、自由の身となりエデシオは故郷に戻ったが、フルメンチオは宣教の成果を報告するために、アレキサンドリアに行き、聖アタナジウスによってアビシニアの司教に任命された。フルメンチオは、「Abuna」(われらの父)という称号を得、以後その称号はアビシニア教会の司教に継承された。エチオピアでは、フェレーメナトスとカサーテー・ベルハーンとも呼ばれ、アビシニア人の使徒とされている。



28日 聖シモン 聖ユダ使徒

1世紀

聖シモン 聖ユダ使徒

 シモンは、イエス・キリストの12人の弟子であり、シモン・ペトロと区別するために、熱心党というグループに属していたことから「熱心党のシモン」と呼ばれている。彼は、カナン人であり、使徒のなかでも特に信仰が深く、モーセの律法を厳格に守っていた。

 ユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと区別するために「タデオと呼ばれるユダ」といわれる。彼は、新約聖書によると小ヤコブの兄弟であると記され、キリストの親類とされている。彼はキリストの昇天後、ユダヤ、シリア、小アジアなどで宣教したといわれ、64年ごろに小アジアの諸教会に書簡『ユダの手紙』を書き、信者たちが誤った教えに陥らないように警告し、祈り、神の愛にとどまるよう教えている(参照 ユダの手紙4.8)。

 のちの伝承によれば、シモンとユダはペルシャで宣教し、そこで殉教したといわれている。



29日 聖ナルチッソ(エルサレム)

?-220年

 ナルチッソは、ギリシャ人であり、エルサレムの司教として任命されたのは、老年になってからであった。しかし、彼は熱心に教区の司牧にあたり、信者たちをよく導いた。彼を快く思わない者から無実の罪を着せられて訴えられたが、信者たちは、ナルチッソの無実を信じて疑わなかった。しかし彼はこれを機に、かねてから望んでいた、祈りと黙想の生活をするためにエルサレムから退いた。彼が去った後に、代行者が亡くなり、新たに司教が任命されると、ナルチッソは、再びエルサレムに戻った。

 彼は、とても高齢になっていたが、司教に助けられ、司牧の務めを亡くなるまで果たしたといわれている。



30日 聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)



31日 聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。



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