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聖人カレンダー

11月の聖人

1日 諸聖人の日

 4世紀、コンスタンティヌス皇帝によってキリスト教がローマの国教となると、教会は各地の殉教者たちを悼み記念するようになった。609年、教皇ボニファティウス4世はローマのパンテオン(神殿)をキリスト教聖堂に建て直し、カタコンベ(殉教者たちの墓)の多くの遺骨をそこに移し、聖なる殉教者たちを記念した。教皇はこの日11月1日を「諸聖人の日」と定めた。

 「諸聖人」は、天国にいるすべての聖なる人の霊魂をさしており、神のもとで人びとのために取りなしており、敬われている。



2日 死者の日

 11世紀初めに定められた。死者のための祈りは、ミサをささげることと同様に、キリスト教のもっとも古い伝統に属しているといわれる。亡くなった人は、罪が浄化され、償いを果たした後に天国に入る。そのために、この世に生きるわたしたちは、死者の魂がはやく天国に導かれるようにと、祈りによって支えるのである。



3日 聖フーベルト司教

655年ごろ-727年

 フーベルトは、フランス、トゥルーズの貴族の家に生まれた。20歳で王国の司法長官となって活躍したが、彼を快く思わない者の陰謀によって国王に訴えられ、出世の道は断ち切られた。その後フーベルトは、ペピン公爵に仕え、結婚し、子どもにも恵まれたが、685年に妻が亡くなったことを機に、今までの職務から退き、アルデンの森で隠遁生活を始めた。

 ある日、彼は狩猟に出かけ、十字架を持つ鹿の姿を見、そのとき神の声を聞いたことから、より徹底してキリストに従うようになった。そしてフーベルトは、ランベルト司教と出会い、彼に導かれて司祭となり、ともに熱心に宣教した。

 ランベルト司教が暗殺されるという不幸な出来事が起こったとき、フーベルトは、彼の後継者として選出され司教となった。アルデンの森の人びとの改宗のために力を注ぎ、近くの町リェージュに大聖堂を建てた。

 彼は、狩猟の守護の聖人とされ、十字架を持つ鹿との出会いのエピソードは、後世の画家が好んで描いたといわれる。リェージュの守護の聖人でもある。



3日 聖マルティノ・デ・ポレス修道者

1579年-1639年

 マルチノは1579年、ペルーのリマで生まれた。母親のアンナ・ベラスケスは、リマ出身のアフリカ系女性で、父親はスペイン西部アルカンタラ出身の軍人だった。マルチノが生まれたとき、当初父親は自分の子どもであることを認めなかったため、洗礼証明書には「父親不明」と書かれた。マルチノが8歳になったとき、父親は息子を認めたが、妹が生まれたときには、家族を捨てて去ってしまった。マルチノは、リマの貧しい環境で育った。
 12歳のときに、マルチノは母親の勧めで、理髪師としての訓練を受け、外科医の見習いとして傷の手当てや薬品についても学んだ。

 彼は修道者になることを望んでいたが、ふさわしくないと思い、15歳になって、リマにあるドミニコ会に信徒の協力者として志願した。9年後、彼の愛と謙遜、祈りと償いの生活が認められ、共同体に勧められて誓願を立てた。

 彼は外国に宣教に行って、殉教することを望んだが、それは叶わなかった。償いとして禁欲的な生活をし、祈りに多くの時間をささげ、人種や皮膚の色、社会的地位によらず、すべての人を大切にした。貧しい人たちに奉仕し、ペストなどの病人や身寄りのない子どもたち、アフリカから奴隷として連れてこられた人びとの世話をし、寛大に日々の糧を彼らに与えた。

 台所、洗濯場、病人の看護など日々の仕事をとおして、マルチノは神の恵みを観想していた。貧しい環境に育ち、神学を学ばなかったが、知恵と知識に恵まれ、彼によって病気が治るなどの奇跡も起こった。彼の愛は人だけにとどまらず、犬や猫、虫など身の回りの動物たちにも及んだ。

 彼のところには、多くの寄付が集まり、貧しい子どもたちのために学校を建てたり、貧しい女性たちが結婚するため、また修道院に入会するために使った。

 修道院の兄弟たちはマルチノを霊的同伴者として慕っていたが、彼は自らを「貧しい僕」と呼び、同じドミニコ会の第三会員であるリマのローザは、よき友人であった。

 1639年にリマで亡くなり、1962年、ヨハネ23世によって列聖された。1966年、パウロ6世は、理髪師の保護の聖人とした。



4日 聖カロロ・ボロメオ司教

1538年-1584年

 カロロは、イタリア、ロンバルディア地方アローナの貴族の家に生まれた。パヴィアの大学で法学を学んだ後、1560年伯父の教皇ピオ4世からローマに招かれ、22歳で枢機卿、その後ミラノ大司教に選ばれた。当時、教会や修道院は風紀が乱れていたので、カロロはその改革にあたり、司祭たちの教育の向上、貧しい人びとや病人の救済にも力を尽くした。ペストがミラノに流行したときも、カロロ自ら看護にあたった。また、トリエント公会議中にも、教会の教義統一、特にミサ典書、要理の編纂に貢献した。

 カロロは、何か特別のことをするのではなく、自分の義務を賢明に果たすことによってキリストの道に従った。フランシスコ会、カルメル会の守護の聖人とされている。



5日 聖ザカリアと聖エリザベト(洗礼者ヨハネの両親)

 新約聖書のルカ福音書では、エリザベトとザカリアは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と書かれている(参照 ルカ1.5-25)。

 彼らには、子どもができず、すでに2人は年をとっていた。そのころ、ザカリアに大天使ガブリエルが現れて、「エリザベトに子どもが産まれる。その子をヨハネと名付けよ」と告げられた。ザカリアは、その言葉を信じなかったため、預言が成就するまで話すことができなくなった。

 ヨハネが誕生すると、親類たちは、割礼を施し、父の名を取ってザカリアという名を付けようとした。ところが、ザカリアが「この子の名はヨハネ」という字を板に書いた。するとたちまち彼は話すことができるようになり神を賛美し始めた。これは、ザカリアの賛歌として知られている(ルカ1.68-79)。

 後の伝承によると、ザカリアはヘロデ王からヨハネの所在を尋ねられたときに、決して言わなかったために殺されたといわれている。



6日 聖レオナルド(ノブラク)

?-559年

 レオナルドは、フランスの貴族の家に生まれ、フランク国王のクロヴィスに忠誠を誓って仕えていた。クロヴィス王の命運をかけた戦いのとき、皇后はこの戦いに勝ったらカトリックの信者になると神に誓った。王も、レンスのレミジオ司教から家臣とともに洗礼を受けた。その家臣のなかにレオナルドがいた。レオナルドは、神にすべてをささげることを決心し、レミジオ司教のもとで学び、司祭となった。クロヴィス王は、レオナルドを司教に推薦したが彼は辞退し、その代わりに心を改めた囚人を釈放してほしいと王に願った。その後、彼はオルレアンの修道院に入り、修行に励んだ。

 あるとき、皇后が難産で重態であることを聞いたレオナルドは宮廷に駆けつけ、祈りによって彼女の命を救い、無事に子どもが生まれた。王が感謝の意を表わし、レオナルドに土地を与えたので、彼はそこにノブラクの修道院を創設し、熱心に宣教して人びとを導いた。彼の名声は広まり多くの人びとが、彼のもとを訪れ、弟子となる者も後をたたず、有名な修道院となった。

 彼に対する尊敬は、12世紀の初めからフランス、イギリス、イタリア、ドイツに広まったといわれる。彼は、囚人、病人、産婦の守護者とされている。



7日 聖エンゲルベルド1世(ケルン)

1185年ごろ-1225年

 エンゲルベルドは、ドイツのベルクの貴族の家に生まれた。若いころ、皇帝オットー4世に武器を持って対抗したために破門されたが、その後異端に反対する運動を熱心に行って信仰を擁護したので、その罪を赦された。1217年にケルンの大司教に、数年後ドイツの行政官に任ぜられ、ベルクに平和を確立しようと力を尽くした。彼自身、厳しい修道生活を送りその模範を示して、司祭、修道者、信者を導いた。

 あるとき、彼の従兄イーゼンベルクのフリードリヒが、エッセンの女子修道院の土地、財産などを奪おうとした。エンゲルベルドはそれをやめさせようとして、フリードリヒに殺害された。

 彼の遺物は、ケルンとアルテンベルクの大聖堂に安置されている。



8日 聖ジダコ

?-1463年

 ジダコは、スペイン南部に生まれ、信仰深い両親に育てられた。少年時代に、ある司祭のもとで生活し、フランシスコ会の修道院に入った。ジダコはどんな仕事も快く行い、徹底した清貧と禁欲を実践し、キリストの受難、聖母マリアへの信心を深め、また広めることに務めた。彼は多くの人を癒し、また信仰に導いたといわれる。

 1414年、ジダコは宣教師としてカナリア諸島に派遣され、修道院長を務めたのちに、晩年をスペインの修道院で祈りと黙想のうちに送った。



9日 ラテラノ教会の献堂

ラテラン教会の献堂

 4世紀のはじめ、ローマ皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と定め、ラテランに聖堂を建てた。この聖堂が神にささげられたものとして記念されたのがこの日である。

 ラテラン大聖堂は、ローマ司教である教皇の司教座であり、「全世界のすべての聖堂の母および頭」である。最初の名は「救い主大聖堂」と呼ばれたが、13世紀に聖ヨハネの名が加えられ、現在は「ヨハネ大聖堂」として通用している。現在の大聖堂は、14世紀の火災にあって、再建されたが、当時の形もいくらか残っている。

 教会の献堂式を毎年記念する習慣は、古くからの伝統である。そのためカトリックでは、各教区の大聖堂とローマの4つの大聖堂、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂(11月18日)、聖マリア大聖堂(8月5日)、そしてラテラン大聖堂を祝っている。



10日 聖大レオ1世教皇教会博士

在位440年-461年

 レオは、イタリア、トスカーナに生まれ、若いころから聖職者として重要な職務につき、教皇に選出された。当時、教会の内外にはいろいろな災難が起きた。その1つにコンスタンチノープルの修道院長エウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウス派の「イエスは人間であって、神ではない」という説を排斥するあまりに、「キリストは真の神であって、真の人間ではない」という極端な説をとなえ始めたことがあった。レオ1世は、これらの異説をすべて排斥し、451年のカルケドンの公会議で、信仰宣言を読み「キリストは真の人間であり、真の神である」と述べた。このとき、司教たちは感動し、「これこそ使徒たちの信仰である。ペトロがレオ教皇の口を借りて語った」と言ったと伝えられている。また、民族移動でフン族、ヴァンダル族が侵入してきたときには、それぞれの王と交渉してローマを危機から救うことに努めた。

 レオ1世のとき、聖ペトロの後継者として初めて「教皇」(Papa)という称号が用いられた。そしてローマ司教の他の教会に対する「首位権」を主張し、教皇の地位と権能を確立させた。

 彼は、96の説教集や多くの書簡集を残した。後世、大教皇という称号を与えられ、「大レオ」と呼ばれる。



11日 聖マルティノ(トゥールの)司教

317年ごろ-397年

 マルチノは、ローマ軍人の父がサバリア(現在のハンガリー)に駐屯したときに生まれ、イタリアで育った。15歳のときローマ騎兵となり、フランスに派遣された。ある大雪の日に、凍えている貧者に出会い、着ていたマントを二つに裂き与えた。その夜、切れたマントをまとったイエスが夢に現れ「あなたがマントを与えた男こそ、このわたしである」と言われたという。334年に洗礼を受け、退役の決心をし、ポワチエの司教聖ヒラリオと出会い、彼の指導のもとで修道生活を始めた。360年ごろガリアに行き、リギュジェにヨーロッパ最初の修道院を創設し、多くの弟子とともに祈りと労働と宣教に力を尽くした。

 370年にツールの司教に任命されるが、修道生活を続け、80人ほどの同志とともにマルムティエに住んだ。この修道運動は各地に広がり、マルチノが定めた祈り、労働などの規則は、後年聖ベネディクトの会則の手本とされた。彼は、司教として各地を宣教して巡り、病人を癒し、政治の乱れを正すことなどに力を尽くした。

 当時、教会は殉教者だけを聖人として認めていたが、殉教者ではない聖人として初めて認められたのが、マルチノである。ヨーロッパでは、彼は親しまれているため、人の名前をはじめ教会、学校などにマルティン、マルタン、マルティーノというように、その名をつけたものが多い。フランスの保護の聖人とされている。



12日 聖ヨサファト司教殉教者

1580年ごろ-1623年

 ヨサファトは、ポーランドのウラジミルで生まれた。当時はローマ教会(カトリック)とロシア正教会との合同運動が起こっていて、ヨサファトの父はローマ教会に属していた。ヨサファトは、ヴィルノの商人見習いとして働いたが、彼の興味は商売よりも教会のことに向けられていた。そしてイエズス会の司祭と出会い、修道者になることを決意し、1604年に聖バジリオの修道会に入り司祭となった。彼の説教はすばらしく、人びとを感動させ、カトリックと一致するように導いた。

 1617年にポロツクの大司教に選ばれた後も、合同運動に力を注ぎ、この運動に反対する人びとから、幾度も命を襲われたが、それにも屈せず熱心に続けた。彼は、いつも「あなたたちの牧者として小羊のために喜んで命をささげます。教会の一致のために……」と言っていた。この言葉のとおり、彼は反対者から暴行を受け、殺された。彼は、教会一致の使徒と呼ばれている。



13日 聖スタニスラス・コストカ

1550年-1568年

 スタニスラスは、ポーランドのロストコフ城の領主の息子として生まれ、信仰深く育てられた。1564年、兄と共にウィーンのイエズス会の寄宿学校に入った。しかし、皇帝によってこの寄宿学校が閉鎖されたため、カトリックでない家に兄と下宿した。兄は信仰生活から離れ、弟スタニスラスの敬虔な態度を嫌い、虐待するようになった。スタニスラスは、心身の疲れで、重病にかかり、聖体(イエス・キリストの体)を受けたいと望んだが、家主が司祭を家に入れることを許さなかった。しかし彼が祈っていたとき、聖バルバラと天使が現われ、聖体を授けた。奇跡的に病が治ると、イエズス会に入ることを決意したが、父の反対にあい入会を許可されなかった。スタニスラスは、ウィーンを出て、ドイツのイエズス会管区長聖カニシウスのもとに行き、入会を願った。カニシウスは、スタニスラスの決心が固いのを知ると彼をローマに旅立たせ、そこで総長から入会を許可された。

 彼は、ローマでの修練生活を、ひたむきに祈りと学業に励んで送った。9ヶ月たったころ、スタニスラスは自らの死期が迫っているの感じ、「8月15日の聖母被昇天の祝日は、天で祝えるよう心から願っています」と言った。彼の言葉どおりに、8月10日に病いに倒れ、そして15日の早朝、「聖母が、迎えにこられました。」と言って17年の生涯を閉じた。

 彼は、ポーランドの守護聖人とされている。



14日 聖ヨセフ・ピニャテリ

1737年-1811年

 ピニャテリは、スペイン、サラゴサの貴族の家に生まれ、幼いころに両親を亡くし、姉のもとで育てられた。15歳でイエズス会に入り、1762年に司祭となって幼児教育や、慈善事業に携わった。特に、死刑を宣告された人びとを慰め、回心に導くなど「犯罪人の父」と呼ばれた。

 当時、ヨーロッパでは啓蒙主義が盛んであった。それに基づいて社会を改革しようとした国王カルロス3世は、カトリック教会を破壊することを企て、今まで教育などを指導してきたイエズス会を国外追放処分にした。ピニャテリは同僚とともに船に乗り、飢餓、病気などの苦しみに遭いながら、なんとか教皇の領土に着いた。そこでも苦しい生活を強いられたが、ピニャテリは、皆を励まし会員をまとめる人物となっていった。彼は、その間イエズス会の歴史を研究し、収集した文献は3000点にも及んだ。

 しかし、6年後教皇はブルボン王家の権力に屈し、やむなくイエズス会に解散を命じた。その日から25年間ピニャテリは、イエズス会会員を物質的にも精神的にも支え保護した。その後、教皇の許可がおりてイタリアの地にイエズス会が復興すると、彼はイタリアの管区長を勤めた。ナポレオン時代になると、ピニャテリは、ナポリに移ったが、教皇が追放されるとともに彼も同地を追われ、ローマで亡くなった。彼は、イエズス会の復興の父として尊敬されている。



15日 聖アルベルトゥス・マニュス司教教会博士

1193年ごろ-1280年

 アルベルトは、南ドイツの、シュワーベンの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。北イタリアのパドバ大学で、医学、自然科学などを学んだ。新しくできたばかりのドミニコ会を知り、その精神に共鳴して、1223年にドミニコ会に入った。司祭となった。アルベルトは修道院で哲学、神学などを教え、その間に当時の学問をすべて習得して「全科博士」と呼ばれた。

 1245年からは、パリ大学で哲学・神学を講義し、その深い知識は多くの学生を惹きつけた。学生の中に中世最大の神学者聖トマス・アクィナスもいた。その後、ドミニコ会の研究機関設立のため、トマスとともにケルンに赴き、研究生活を送った。ドイツの管区長、レーゲンブルクの司教を経てボヘミアの十字軍説教者となった。

 アルベルトは、アリストテレスの思想をドミニコ会に導入し、西方教会全体に浸透させようと努力し、多くの著作を残した。彼は、信仰と理性との間に明らかな区別をした最初の神学者であり、単なる理性だけでは、だれもイエスの託身・復活は理解しえないと主張した。

 科学者の保護の聖人といわれている。



16日 聖マルガリタ(スコットランドの)

1045年ごろ-1093年

 イングランド王エドワード・アイアンサイドの孫娘であるマルガリタは、若いころ伯父のエドワード(証聖王)の宮廷で育った。しかし1067年、ノルマン人の侵入によりアングロサクソン王国が打倒されたために、母と妹とともにスコットランドに渡り、国王マルコム3世の宮廷に逃れた。マルガリタは、1070年に国王と結婚して王子6人、王女2人をもうけ、熱心に子どもの教育をした。その子ダヴィド1世は賢王の一人とされている。彼女は王妃として宮廷の悪い習慣を改善し、教会の改革や貧しい人・病人への救済に献身した。その影響で国王もキリスト信者となり、慈善事業や病院の設立などに多くの援助をし、対外的にも隣国と平和を保った。

 またマルガリタは、イングランドの修道士を呼び、ベネディクト会修道院を創立させ、エディンバラ宮殿に美しい教会を建てさせた。



16日 聖ジェルトルジス・マジナ修道女

1256年-1302年

 ジェルトルジス・マジナは、ドイツ、テューリンゲンで生まれた。5歳のとき、ベネディクト会のヘルフタ修道院に入り、ハッケボルンのジェルトルジスから教育を受けた。祈りと観想の生活に励むとともに、ラテン文学、哲学、聖書学などを学んだが26歳のときから病いの身となった。しかし祈りの中でキリストの姿に出会う体験をするようになり、ますます神と一致していった。この神秘的体験を美しいラテン語で表現し、奥深い著作を残した。彼女の体験はキリストとの愛の関係に根ざし、キリストの人格との内的婚姻という神秘思想の流れをくんでいるため、「婚姻の神秘主義」と呼ばれた。



16日 聖ゲルトルードおとめ

1256年-1302年

 ゲルトルードは、1256年1月6日ドイツにアイスレーベンに生まれた。裕福な家庭の出身のようだが、くわしいことは分かっていない。才能に恵まれた彼女は、5歳のときから、テューリンゲン州のヘルフタにあるベネディクト会修道院で教育を受けた。ここで彼女はマクデブルグの聖メヒティルト(1240?年-1298年)と出会い、彼女から文学と哲学を学んだ。メヒティルトは学問においても、霊的生活においても、ゲルトルードに大きな影響を与えた。その後、彼女はそこで誓願を立て、修道女として生涯をささげた。

 25歳のとき深い内的な回心を遂げ、それから20年間、教会の祈りを唱えているときに幻を見るなど、神秘的な体験をした。あるときイエスは彼女に現れ、死後清めを受けている煉獄の霊魂のために祈るよう願ったと言われている。彼女は当時まだ人びとにあまり知られていなかったが、イエスのみ心に対する信心があり、祈りの生活は、受難において苦しまれたイエス、聖体、聖母マリアと一致していた。

 内的回心の後、彼女はそれまで受けてきた一般的な勉学よりも、聖書、典礼、教父たちについて学ぶことに専念した。彼女は自らの神秘体験や、メヒティルトの霊的体験についてなど、多くの著作を残し、中世の最も偉大な神秘家の一人である。1302年11月17日、アイスレーベンで亡くなった。1677年クレメンス12世によって、彼女の記念日が11月16日に定められた。西インド諸島の保護の聖人である。



17日 聖エリサベト(ハンガリーの)修道女

1207年-1231年

 エリザベトは、ハンガリー王女として生まれた。4歳のときに、ドイツのテューリンゲンのヘルマン伯の子息ルートヴィヒと婚約し、将来皇后としての必要な教育を身につけるため、ヘルマン伯の城で教育された。

 エリザベトは、幼いときから敬虔であり、宮廷内の批判を受けることもあったが、ヘルマン伯とルートヴィヒによって大切に保護された。

 1221年に結婚し、1男2女をもうけ、子どもたちをよく教育した。そしていっそう祈りと節制に励む一方、貧しい人や病人を見舞った。しかし、1227年、夫が十字軍の遠征中に病死するという不幸な出来事が起こると、夫の兄弟たちは、後継者として立とうとして、エリザベトと子どもたちを城外に追放した。彼女たちは、アイゼナハに逃れたが、町の人びとからは受け入れられず、苦しい立場に置かれた。しかし、幸いなことに、教皇のとりなしによって、子どもが後継者として認められた。彼女自身は、宮廷から退き、聖フランシスコの第三会に入り、持っている財産で病院を建て、そこで貧しい人びとの看護にあたった。それから4年後に、24年の生涯を閉じた。

 エリザベトは、ドイツの人びとから親しまれている聖人のひとりであり、ドイツにはその名を取った病院や施設が多い。



18日 使徒聖ペトロ教会と使徒聖パウロ教会の献堂

 ペトロは、キリストの12人弟子の一人で、初代教会の発展に尽くし、初代教皇となった。パウロも、キリストの偉大な使徒であり、異邦人への宣教に生涯をささげた聖人である。バチカンのペトロの墓とオスチア街道テベレ河畔のパウロの墓は、2世紀の文献によれば「使徒たちの戦勝記念碑」といわれ、信徒たちから敬われ、有名な巡礼地となっている。

 330年ごろローマ皇帝コンスタンチヌスは、ペトロの墓の上に荘厳な大聖堂を建てた。この聖堂は、16世紀にブラマンテとミケランジェロによって改築され、1626年11月28日に献堂式が行われた。またパウロの墓の上に建てられた小聖堂は、390年ごろ壮麗なものに建て直されたが、1823年の火災で消失し、1854年に再建された。



19日 聖ポンチアノ教皇者

在位230年-235年

 ポンチアノは、教皇ウルバヌス1世の後を次いでローマ司教(教皇)になった。当時は、神学者オリゲネスが書いた種々の著作が論議を巻き起こしていたので、教皇もその一部に反対せざるを得なかった。またオリゲネスに傾倒していた聖ヒッポリト(8.13参照)と教えについての論争が続いており、教皇座が分裂していた。

 在位してから5年後、ローマ皇帝マクシミヌス1世によるキリスト教迫害が起こり、ポンチアノはヒッポリトとともにサルデェニヤに流された。そこで、2人は和解し親しい友人となり、教皇座の分裂が終わった。ポンチアノは、強制労働をさせられた後、ヒッポリトとともに殉教した。2人の遺体は、教皇ファビアーヌスによってローマに戻され、埋葬された。



19日 ハックボルンの聖メヒティルト

1241年-1299年

ハックボルンの聖メヒティルト

 聖メヒティルトは、ドイツ、テューリンゲン州の高貴な家庭に生まれた。7歳のときに母に連れられて、姉のゲルトルード(ハックボルンの)が住んできたシトー会、ロダースドルフ修道院を訪ね、両親の反対を押し切って、彼女も入会を決めた。姉のゲルトルードは後にヘルフタの修道院長になった。

 彼女が修道院長で、歌の才能に恵まれていたことから、修道院の聖歌隊を指導をしていたことが、ヘルフタの大ゲルトルード(1256年-1302年)の著作から知られている。また1261年、当時5歳だった大ゲルトルードがベネディクト会修道院にあずけられたとき、彼女を教育したのはメヒティルトであった。

 メヒティルトは生涯のなかで、数々の神秘体験をした。あるとき、彼女は霊的慰めもなく、病のために1ヵ月以上ベッドに伏していた。しかし、神から豊かな恵みが彼女に注がれ、その後、今までの霊的体験を人びとに打ち明け始めた。彼女の体験はヘルフタの修道女たちによって、『特別な恩寵の書』(平凡社刊)として書きつづられた。この書は、中世神秘主義の代表作あり、イエスのみ心に対する崇敬や、苦しみにおいて受難のイエスと一致することなどが描かれている。メヒティルトにとって、人間の心は神と人とが出会う根源的な場であり、個人としてだけではなく、地上、天上の人びとが共同体として神をたたえ、その取りなし手として聖母マリアを捉えるというビジョンを持っていた。

 1299年に修道院で平和と沈黙のうちに亡くなった。



20日 聖フェリクス(ヴァロア)

1127年-1212年

 フェリクスは、フランスのヴァロアの貴族の家に生まれた。敬虔な両親のもとで信仰深く育てられ、聖ベルナルドのクレルヴォの修道院で教育を受けた。その後、フランスの宮廷で仕え、皇帝とともに十字軍に参加し、聖地エルサレムの奪回に奮闘した。帰国後は宮廷を退き、司祭となり、荒野で隠遁生活を始めた。

 20年たったのち、荒野でパリ大学教授ヨハネ・デ・マタと出会い、ともに祈りと修行に励んだ。そして自分たちの使命が奴隷解放のために働くことであると悟り、時の教皇の認可を受け、「三位一体会」を創立した。1198年に、フランスのセルフロアに修道院を建て、ヨハネはアフリカに渡って奴隷解放のために働き、一方フェリクスは、各地に修道院を建て同志を集め、彼らを養成した。

 三位一体会は、奴隷解放のほかに、十字軍の従軍看護、捕虜解放、療養所の設立などに貢献した。



21日 聖母マリアの奉献

 古い伝承によれば、聖母マリアは、幼いころ両親(聖アンナと聖ヨアキム)によって、エルサレムの神殿に仕えるためにささげられたといわれている。聖書には、神殿に住み、断食や祈りそして神を礼拝する女性の集団があったと記されている(参照 1サムエル2.22, 出エジプト38.8)。

 この日は、マリアが生涯自分を神にささげたということを記念する日である。彼女の奉献は、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1.38)という言葉に表現されている。彼女の神への全き信頼は、その生涯を貫くものだった。

 この祝日は、エルサレム神殿の近くにある「聖マリア・ノーヴァ」と呼ばれる聖堂の献堂式を、543年11月21日に行ったことが始まりである。西方教会では「マリアの奉献」というが、東方教会では、「神の聖なる母の神殿入り」の記念と呼んでいる。



22日 聖チェチリアおとめ殉教者

2-3世紀ごろ

聖セシリアおとめ殉教者

 セシリアは、ローマの裕福な貴族の家に生まれた。父の意志により、信者でない青年バレリアノと結婚したが、彼女は、神のために生涯貞潔を守ることを彼に話した。彼女の熱心な信仰態度に心を打たれたバレリアノは、弟ティブルツィオとももに洗礼を受けた。そして彼らは迫害されて殉教した人びとの遺体を引き取り、手厚く葬った。このことがローマ総督の耳に入り、バレリアノと弟は捕えられ、信仰を捨てるように命じられたが拒んだため、2人は斬首の刑を受けた。

 セシリアは、彼らの遺体を引き取り埋葬した。その後、自分の家をカタコンブ(地下墓地)にしたり、聖堂(のちに聖セシリア教会と呼ばれる)にしたことが総督に知られ、捕えられ、棄教するように強要された。彼女がむし風呂の刑にあっても、苦痛もなく、汗ひとつかかなかったので、最後は首を切りつけられて、3日間の苦しみののち殉教した。

 信者たちはセシリアの遺体をカタコンブに葬った。1599年に、腐敗していない彼女の遺体が発見されたといわれている。その姿をもとに、彼女の墓の上には、当時の有名な彫刻家によって造られた像が置かれている。

 彼女は、「心のうちで神に音楽を奏でていた」といわれる伝承があることから、音楽家の保護の聖人として人びとから親しまれている。



23日 聖クレメンス1世教皇殉教者

在位92年ごろ-101年

 クレメンスは、元老院の父と貴族出身の母のもとローマで生まれた。聖ペトロや聖パウロからキリスト教の教えを聞き、使徒たちを助けて宣教したといわれる。

 彼は、92年、キリストの代理者として第3代のローマ司教(第4代教皇)になった。歴史的に見てこの時代は、後世の教会の伝統に重要な意味を与えている。当時、聖ヨハネを除いては、キリストの12弟子は殉教で亡くなっていた。クレメンスを含め、この時代の初期の人たちは、キリストの12使徒の弟子として、教えを受けていた。

 クレメンスは、各教会に書簡を送り、信者を励まし、ときにはよくない習慣を戒めたりして、信者から多大なる尊敬を受けていた。特に、問題が多かったコリント教会への書簡は、「クレメンスの第1の手紙」として残っており、当時の教会を知る第一の資料となっている。その中で、彼は信者たちに、互いに愛しあい、尊敬しあって、教会の長上を尊敬するように勧めている。

 「イエスに従うすべての人びとの目的は平和である」(聖クレメンス)

 クレメンスについては、多くの伝説が残っており、それによると、彼はローマ皇帝トラヤヌスの迫害時にクリミア半島に追放され、奴隷として働き、その状況下でも宣教を熱心にしていたため、死刑に処せられたといわれている。



23日 聖コロンバン修道院長

543年-615年

聖コロンバン修道院長

 コロンバンはアイルランドのレンスター州出身で、貴族の家に生まれた。子どものころ、優れた教師たちから教育を受けた。彼は容姿に恵まれていたので、町の女性たちから誘惑を受けた。彼はこのことで、とても苦しみ、隠遁者となった女性のところへ行って、助言を求めた。彼女は神のためにすべてを捨てて生きる生活を勧め、コロンバンは母親の反対を押し切って、修道院に入ることを決心した。

 彼は、まずアイルランド北部にある、クルアンイニスの共同体に行き、院長シネルの指導のもと、聖書の勉学に親しんだ。そして20歳のとき、アイルランド東北部にあるバンゴール修道院に入った。院長のゴンガルのもとで、祈り、勉学に励み、禁欲的な生活を送った。ここで、コロンバンは司祭に叙階された。バンゴールでの生活は、彼の修道制思想に大きな影響を与えた。

 それから約50年間、コロンバンは12人の同士とともにヨーロッパ宣教旅行に出かけた。当時、ヨーロッパは民族の移動により、修道院や教会が破壊され、人びとの生活も荒廃していた。彼らはアウストラシア(現在のフランス)に到着し、未開拓の地で生活をはじめた。修道士たちは土地を開拓し、祈りと厳しい禁欲の生活を送り、人びとによい模範を与えた。やがて、人びとや巡礼者が訪れるようになり、多くの若者たちが仲間に加わることを望んだ。修道士たちの数が増えたため、第二の修道院をリュクスーユに建てた。

 コロンバンはリュクスーユで20年間過ごし、ここで彼は『修道規則』を著した。この本は彼に従う人びとのために書かれたものであり、現存するもっとも古いアイルランドの修道規則である。

 そのころ、国王や権力者たちは風俗の乱れた生活を送り、ヨーロッパは暗黒の時代を過ごしていた。勇気あるコロンバンは躊躇することなく、彼らの行いが正しくないことを指摘し、やがて宮廷と対立するようになった。そのため、彼はガリア(現在のフランス)から追放されたが、またドイツに戻って、スイス、イタリアなどで宣教した。

 イタリアでは、異端であるアレイオス派との論争で活躍し、分裂していた教会を一致させるため、教皇ボニファチオ4世に手紙を書き送った。

 612年または613年ごろ、イタリアのエミリア・ロマーニャ州にあるボッビオに修道院を建て、彼はそこで615年11月23日に亡くなった。

 彼は、生涯を通じて、地上の富から離れ、禁欲的な生活を送ったが、それは彼が神の愛に自由に心を開き、神が与えてくださるたまものに自分のすべてをもって、応えるためだった。文化人だった彼は、修道司祭、宣教者、著述家としてさまざまな国で活躍し、ヨーロッパの再キリスト教化、文化的統一のために力を尽くした。

 聖コロンバン会は、1916年2人のアイルランド人司祭によって創立され、聖コロンバンを保護者としている。



24日 聖クリュソゴノス

?-304年

 クリュソゴノスは、ローマの役人であったが、キリスト教徒になり、多くの人びとを信仰に導いた。特にアナスタシア(殉教し聖人となる)を信仰に導いた。クリュソゴノスは彼女の信仰の師として、キリスト教徒でない人と結婚したキリスト者の生き方を論じたと伝えられている。

 当時は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによるキリスト教迫害下にあり、クリュソゴノスも捕えられ、何か月も拷問を受けたのちに斬首された。彼の遺体は、海に投げられ、ゾイルスという司祭に発見されたといわれる。

 4世紀の初めに、教皇シルベストロ1世によってクリュソゴノスの墓の上に教会が建てられ、人びとから敬われた。この教会の祭壇の上には、彼の頭と腕が安置され、17世紀になって、天井に画家ジョヴァンニ・グエンチーノによる「聖クリュソゴノスの勝利」という絵が描かれた。



24日 聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同志殉教者

17-19世紀

 彼らは1625年から1886年にかけて、ベトナムで殉教した117人である。そのうち96人がベトナム人司祭、カテキスタ、第3会員で、その他外国人の21人は、ドミニコ会やパリ・ミッション会の司教、司祭だった。

 スペイン人のドミニコ会士、イグナチオ・デルカド司教とドミニコ・エナレス司教は50年間ベトナムで働き、逮捕された。監禁された後、飢えと渇きに苦しみ、1838年、斬首された。

 アンデレ・ジュン・ラク司祭は、1795年にベトナム北部のバックニン省で生まれた。異教徒の貧しい家庭で育ち、12歳のときハノイ市に家族とともに移り住んだ。そこでカテキスタと出会い、信仰教育を受けた彼は自らもカテキスタとなり、1823年に司祭に叙階された。国王による迫害のもと、彼は何度か捕らえられたが、信徒たちが集めた献金を王に献上し、解放された。多くの人に洗礼を授け、教区司祭として信徒を励まし司牧していたが、1839年に捕らえられた。激しい拷問を受け、12月21日に斬首された。

 ベトナムでの信徒に対する拷問は残酷で、1847年に殉教した信徒17人のなかには、9歳の子どももいた。

 117人は5回にわたって列福されたが、2000年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。



25日 聖カタリナ(アレキサンドリア)おとめ殉教者

?-309年

聖カタリナ(アレキサンドリア)おとめ殉教者

 カタリナは、エジプトのアレキサンドリアの貴族の家に生まれ、早くから学問を修め、才能に恵まれていた。あるとき彼女は、ひとりの隠修士からキリストの教えを聞き、洗礼を受けた。18歳のとき、ローマ皇帝マキシミヌスは、市民たちに偶像崇拝を命じ、従わない者は処罰することを公布した。カタリナは、公に信仰を表わしたので、皇帝は50人の学者を集め、彼女を屈服させようとした。しかし、学者たちは彼女に感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言し、改宗した。憤慨した皇帝は、学者全員を処刑したが、カタリナに対しては、その学識の豊かさと美しさに心をひかれていたので、彼女が信仰を捨てれば、皇后にするとまで言った。しかし、彼女が拒否したので、皇帝は怒り、彼女を車輪に縛りつけて身を引き裂くという刑を執行するよう命じた。それでも彼女が命を落とさなかったため、最後は、斬首された。

 彼女の遺体は、天使によってシナイ山に運ばれたと伝えられている。

 カタリナを敬う習慣は、8世紀ごろに東方教会から西方教会に伝わり、10世紀にはイタリアを中心に広まった。釘を打った車輪と、イエス・キリストとの婚約指輪、剣などを持った姿で描かれている。

 若い女性、学者、弁護士などの守護の聖人とされている。



26日 聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)

1676年-1751年

 レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストはわたしのために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人びとを信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。

 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人びとに対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。



26日 福者ヤコブ・アルベリオーネ司祭

1884年-1971年

 ヤコブ・アルべリオーネは、1884年4月4日、北イタリアのクネオ県、サン・ロレンツォ・ディ・フォッサーノの貧しい農家に生まれた。6歳のとき、小学校の先生から将来の夢をたずねられ、「ぼくは司祭になります」と答えた彼は、司祭になる道を目指して、1896年にブラの小神学校に入学した。しかし、悪い仲間が回した本のことがきっかけとなって、1900年に中退した。その後、その年の10月アルバの大神学校に入学した。

 19世紀の終わり、教皇レオ13世は「新しい世紀のために祈るように」と信徒たちに呼びかけた。1900年12月31日から1901年1月1日にかけての夜、神学生であったアルベリオーネは、アルバにある司教座聖堂で祈っていた。顕示された聖体から特別な光を受け、「みな、わたしのもとに来なさい」というイエスの招きと、新世紀の人びとのために何事かを果たさなければならないという義務を感じた。

 このインスピレーションの後、1907年に教区司祭になった彼は、当時教会に反対する人びとが出版によって自分たちの考えを広めていたことに注目し、メディアによって福音宣教する「聖パウロ修道会」を1914年に創立した。

 1915年にはテレザ・メルロの協力のもとに、「聖パウロ修道会」と同じ使命を持つ「聖パウロ女子修道会」、また1923年、祈りに献身し、司祭と聖体への奉仕につとめる「師イエズス修道女会」を創立した。その他に2つの女子修道会、4つの在俗会、協力者会を組織し、この10の会を「パウロ家族」と呼んでいる。パウロ家族は、道、真理、いのちである師イエスを人びとに告げ知らせることを使命としている。

 当時メディアによる宣教は、人びとから理解されなかった。しかし、精神的、経済的困難に直面しながらも、アルべリオーネ神父は祈りのうちに神と親しく対話し、神のみ旨だと分かれば、恐れることなく実行する勇気を持っていた。1923年、病に伏した彼に師イエスがあらわれ、「恐れることはない。わたしはあなたがたと共にいる。ここから、照らそう。悔い改めの心を持ちなさい」と言ったことばは、生涯、彼を力づけた。このことばは全世界のパウロ家族の聖堂に掲げられている。

 彼は、1962年から1965年に行われた第2バチカン公会議にオブザーバーとして出席した。「広報機関に関する教令」が発布され、メディアを宣教のために用いることを奨励したこの教令は、アルベリオーネ神父とパウロ家族の会員たちに大きな慰めを与えた。

 1971年に病状が悪化し、その年の11月26日、87歳で帰天した。

 2003年4月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世によりバチカンの聖ペトロ広場で列福され、福者にあげられた。

 パウロ家族のメンバーは、彼の後継者として、世界で教会に奉仕している。



27日 聖ヤコボ・インテルチーズス

5世紀

 ヤコボは、ペルシャに生まれ、信仰深く育てられた。ペルシャ国王エディゲルド1世に仕えていたが、420年ころから王がキリスト教を迫害し始めると、王の信頼を失うことを恐れて棄教した。王の死後、ヤコボの両親は、信仰を捨てたことで彼を責め、彼との関係を断つという手紙を送った。ヤコボは、大きな衝撃を受け、宮廷を去って、回心することを誓った。それを聞いた次の王バーラムは、ヤコボが棄教しないなら彼を処刑せよと臣下に命じた。

 しかしヤコボは、決して信仰を捨てようとせず、「この苦しい死も、永遠の生命を得るためならば比べることなどできない」と言った。そのため、刑を執行する者たちは、王の命令通りに彼の体を切り始めた。多くの信者たちから見守られ、ヤコボは苦痛に耐え祈りながら、殉教した。「インテルチーズス」といわれるのは、「細かく切り刻む」という意味からである。



28日 聖カタリナ・ラブレ

1806年-1876年

 カタリナは、フランス、ブルゴーニュの裕福な農家に17人兄弟の9番目の子として生まれた。9歳のときに母と死別し、その後は彼女が家事を手伝った。父の反対があったが、1830年に愛徳姉妹会に入り、パリの修道院に派遣され、そこで祈りと修業に励んだ。ある晩祈っていると聖母マリアが現われ、彼女の使命について語った。2度目のマリア出現の際に、カタリナは「不思議なメダイ」(聖母マリアが刻まれたメダル)を作り、その信心を広めるようにと言われた。彼女の体験した2つの示幻は、2年後の1836年に、パリ大司教区の調査委員会によって認められた。メダイは、パリの大司教の奨励で製造されるようになり、メダイの普及に伴って病気の全快や回心など多くの奇跡が世界の至るところで起こったといわれる。

 彼女の遺体は、パリのバック街の修道会本部に安置されている。現在もその不思議なメダイは、多くの人びとから大切にされ、親しまれている。



29日 聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

3世紀

 セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。

 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人びとを信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人びとがセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。

 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。



30日 聖アンデレ使徒

1世紀

聖アンデレ使徒

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。

 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。

 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。

 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。



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