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第2回 神を求める人間


「第1編 信仰宣言」は、第1部と第2部に分かれています。第1部は、「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第2部は「キリスト教の信仰宣言」となっています。この第1部、第2部がそれぞれ1章~3章に分かれており、章の中に項が立てられ、その項の下が、またいくつかに分かれているという構造になっています。以上の構造は、各編で、同じような組み立てになっています。

『カトリック教会のカテキズム』をご一緒に学んでいくために、使徒たちがキリストの愛に駆られてキリストを宣べ伝えたように、そして、その話を聞いた人びとが、神の愛、キリストの愛を感じ、信じたように、私たちも「すべてに超えて、愛」を念頭におきながら学んでまいりましょう。


第1編 信仰宣言


第1部 「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」


わたしたちは、キリスト教を信じ、洗礼を受ける時、わたしたちは、自分たちはこのようなことを信じていますということを、「信仰宣言」の形ではっきり公言します。この「信仰宣言」の最初の言葉が、「クレド」、つまり「わたしは信じます」という言葉です。この言葉が、第1部のタイトルとして付けられているのは意味深いことです。

「信仰宣言」は、キリストと使徒たちの教えが次第に要約され、2世紀頃にこの形にまとめられたものです。この「信仰宣言」の内容は、ある意味では、これから、ご一緒に読んでいく全ての内容に関係しているといえるものです。信仰は、ご自分を知らせてくださる神様への、人間の答えです。まず、神を求める人間の探求について述べ、次に、そのような人間にご自分をお知らせくださる神の啓示について、そして、その神への人間の応答である信仰の順に見ていきましょう。


第1章 人間は神を「知ることができる」


1 神へのあこがれ

これから、しばしば「人間とは何か」ということが出てくると思いますが、ここでも、まず最初に、人間は神によって、神に向けて造られているので、心の中に神へのあこがれが刻まれている、ことが述べられています。

聖アウグスチヌスが『告白録』の中に、「(神よ)あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」と言っていますが、その言葉が思い出されますね。

人間といわなくても、私たち自身のことを考えてみておわかりのことと思いますが、私たちは、幸福になりたいと、いろいろ探し求めます。ある時はお金を求め、ある時は社会的地位を求め、またある人は美しさを求めます。ある人はお金さえあれば幸せになれると、一生懸命働き、お金持ちになりましたが、いざお金持ちになっても、心の渇きはとまりません。ある人は快楽を求めましたが、それでも幸せではありませんでした。このように、モノが豊かにあり、お金も十分持っていても、心の底には満足感がありません。それでは幸福とは感じられないのです。そこで、本当の幸福とは何かと求め続けるのです。前述の聖アウグスチヌスの言葉ではありませんが、私たち人間は、神のうちに憩うまでは幸せ感を感じないのです。

人類史を見てみると、その最初から、神に礼拝をささげたり、ささげものをしたり、神に祈ったりしてきたことがわかります。この事実からも、人間は神に向けて造られた存在だということがおわかりいただけるのではないでしょうか。たとえば、有名なフランスのラスコーの洞窟には、牛や馬の絵が描かれていますが、これらの絵は、呪術や祈りに関係しているものだといわれています。ラスコーの絵は約16,500年前に描かれたものだそうですから、その時、すでに、人々は神に祈ったりしていたことがわかります。

太古の昔から、今に至るまで、私たち人間は、いろいろな方法で、神を探し求めてきました。現在の日本のことを考えてみても、キリスト教、仏教、神道、イスラム教、その他多くの新宗教といわれるものや、新新宗教といわれる宗教など、実に多くの宗教があります。そのことを考えても、神を求めてやまない人間の姿が見えてきます。このような人間の姿から考えて、「人間は本質的に宗教的存在である」といえるのではないでしょうか。しかし、同時に、その逆の動き、つまり、人間が神を忘れたり、神を軽視したり、拒否したりする場合もあります。この原因はさまざまです。この原因について、『カトリック教会のカテキズム』は、次のように述べています。

「世の悪に対する反発、宗教的無知または無関心、世の思い煩いや富の誘惑、信者の悪い模範、反宗教的風潮、ついには恐れのために神から隠れ、神から逃れようとする罪人としての人間の姿勢です」と。これらの中には、唯物主義と呼ばれたり、無神論といわれたり、物質主義、科学万能主義といわれるものも含まれています。

無神論は、すでにある神概念への批判から生じるものなので、キリスト教の土壌のある地域で根強いものがあります。ですから、日本のように、キリスト教が根付いたとはいえない地域においては、強固に神を否定する無神論を主張する人は、少ないでしょう。けれども、現代に生きる多くの人々の精神性に、この無神論の風潮の影響は根強いものがあります。

このように、人間の側が神を忘れたり、神を拒否したとしても、神の側からの働きかけは絶え間なく続けられています。常に、神は人間に呼びかけておられるのです。

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