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第11回 わたしは信じます –(1)


第3章「神への人間の応答」を、ご一緒に学んでまいりましょう。


第3章 神への人間の応答


神はご自分を啓示することによって、私たち人間に、神がどういうお方かをわからせてくださるということは、以前、お話しいたしましたね。この神に対して、人間がふさわしく答えるためには、信仰による応答しかありません。この応答は「信仰による従順」と呼ばれています。


第1項 わたしは信じます


1 信仰による従順

信仰は、人間が全身全霊をあげて神の啓示に応答することです。この「信仰による従順」の模範は、アブラハムと聖母マリアです。


アブラハム—「信じるすべての人の父」

アブラハムについては、第6回でお話したとおりですが、新約聖書にも、アブラハムについて書かれた箇所があります。それは、「ヘブライ人への手紙」11.8~19です。ここも、あわせてぜひご覧ください。


もう一人の「信仰による従順」の完全な模範は、聖母マリアです。


マリア—「信じたかたは、なんと幸いでしょう」

マリアは、大天使のお告げを受け、信仰をもってその言葉を受け入れました。マリアはその一度の神への「はい」という従順を、一生涯貫き通されました。このマリアの信仰ゆえに、今も、神の民である教会から、また神を信じる多くの人々から「幸いな方」「恵みあふれる方」と敬われているのです。ルカ福音書の1章全体をご覧ください。

キリスト教徒を迫害していたパウロは、復活されたキリストに出会い、異邦人にキリストを告げ知らせる使徒とされました。そのパウロは、自分の弟子であるテモテに手紙を送り、「わたしは自分が信頼しているかたを知っています」と書きました。では、私たちの「信頼しているかた」とは誰でしょうか。

教会で、ミサに参加する時、信者は自分たちの信仰を宣言します。「父と子と聖霊を信じます」と、公言します。私たちの「信頼しているかた」は、この「父と子と聖霊」です。


神のみを信じる

信仰は、神に対する人間の人格的な帰依であると同時に、啓示されたすべての真理に対する自由な同意を伴うものです。人間を信じるのでなく、神のみを信じるのです。


神の御子イエス・キリストを信じる

神を信じることは、神が遣わされた神の御子イエス・キリストを信じることでもあります。神は「これは私の愛する子、彼に聞け」とおっしゃいました。また、イエス・キリストご自身、「私を見たものは父を見た」のだとおっしゃっています。私たちは、人となられた神の御子を信じるのです。


聖霊を信じる

聖霊はイエスの霊です。イエスが復活後、ご自分の霊を私たちに送ってくださったのです。聖霊が送られたことによって、弟子たちは、イエスの言葉と行いの意味がよく分かり、キリストを宣教するようになりました。私たちも神である聖霊を信じています。聖霊によって私たちは、神を知ることができるのです。

では、次に信仰の特徴について見てみましょう。

信仰は、なによりも神の恵みです。聖霊がすべての人の心に働きかけ、神に向かわせてくださるのです。しかし、人間の働きがないというのではありません。神に信頼し、神の啓示してくださった真理に応答することは、人間的な行為そのものです。聖トマス・アクイナスは、「信じるとは、恵みによって神に動かされた意志の命じるままに、神の真理に同意する知性の行為である」と言っています。

信仰と私たちの知性の働きは矛盾するもではありません。私たちの理性ですべて理解できるから、私たちは信じるのではありません。私たちが信じるのは、啓示された事柄が、神の権威によっているからです。ですから、信仰は人間の認識よりも確実なものといえるのです。たとえ、理解できないことがあったとしても、それが信仰の確実さを疑わせることにはなりません。それどころか、もっと、神をよく知りたい、啓示された内容について、もっと知りたいと願うのは、信じる者のとるべき姿勢です。

こうして、知識が深まれば深まるほど信仰は強くなり、ますます神と人への愛が強く燃えるようになっていきます。ですから、当然、信仰と学問の関係は対立するものではありません。よく言われることですが、真に自分の研究を追求している人は、その学問を通じて神と出会う人が多いのです。

信仰は神への人間の応答ですから、自由意志によるものです。強制されて、信仰の道に入るということはできません。ですから、自由に信じるのです。しかし、救いを得るために、信仰はどうしても必要なものです。そして、その信仰を最後まで保ち続ける必要があります。

今、私たちが信じている信仰は、永遠の生命の喜びを、前もって味わわせるものです。 この地上での生活の間、信仰を通してしか、神を見ることはできませんが、天の国では、信じた方・神をはっきりと見ることができ、永遠の生命の光、喜びなどを味わうことができるのです。

しかし、この世界の矛盾や苦しみ、不正などを見るとき、私たちは信仰が衰えてしまいそうになるときもあります。そんな時こそ、アブラハムや聖母マリアをはじめ、多くの信仰の証人たちに目を向けて、信仰の道を力強く歩んで行きましょう。

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