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カテキズムを読もう
第15回 父
第2節「父」に入っていきましょう。第1章は「わたしは父である神を信じます」ということをご一緒に読んでいるので、この章全体で「父」なる神について、取り扱っています。主に、この節では三位一体について話しています。
第2節 父
1 「父と子と聖霊のみ名によって」
復活祭に向けて、色々な小教区教会では洗礼志願者の入門式が始まっています。入門式に参加すると、自分の洗礼式のことを思い出される方も多いのではないでしょうか。
私たちは「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けました。「父と子と聖霊のみ名によって」と言うとき、この「み名」という言葉は、日本語では分かりませんが、単数で表現されています。私たちの信仰は、この「父と子と聖霊」という三位一体に基づいています。神は唯一で、全能の父、そのひとり子、聖霊は、三位一体と呼ばれます。三位一体の神秘は、神ご自身のうちなる神秘です。この神秘は、すべての神秘の源です。
[237]には、三位一体は信仰の神秘であり、人間の理性だけでは知ることができず、神の子がこの世にお降りになるまでは、知り得なかった神秘だということが、書かれています。以前、「三位一体、わからんたい。オーグスチンさえ、わからんたい」と神学生たちがうたうのを一度だけ聴いたことがあります。そのときは、「ああ、三位一体については、神学生でさえも、アウグスチヌスでさえも分からないといっているから、私なんかが分からないのは当たり前だな」と妙に納得した記憶があります。
2 三位一体である神の啓示
◆子によって啓示された父
旧約時代、イスラエルの民は神を「父」と呼んで、祈っていました。これは、世界の創造主として、また、イスラエルを長子と呼んで、契約を結ばれた神を指していました。 さらに、ダビドなど王の父とも呼ばれ、貧しい人々、特に、イスラエルの民の間でいちばん保護が必要とされていた孤児や寡婦の父と言われています。しかし、神が「父」であるということが、明らかにされるためには、イエス・キリストを待たなければなりませんでした。
イエスは、神が特別な意味での「父」であることを、私たちに教えてくださいました。神は単に「創造主」だから「父」なのではなく、ひとり子・イエス・キリストとの関係性において、永遠に「父」であり、イエスは永遠に「子」なのです。
教会は、325年ニケアで開催された公会議において、さらに、381年に開催されたコンスタンチノープル公会議において、次のように信条を表現しました。
「神の御ひとり子、
よろず世の先に、父より生まれ、
光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られずして生まれ、父と一体なり」。
◆聖霊によって啓示された父と子
聖霊は、イエスや父とは区別される、別のペルソナとして啓示されました。イエスは、この世から、御父のもとに行く前に、弟子たちに聖霊を遣わすと約束してくださり、実際に聖霊を派遣してくださいました。以来、聖霊はキリストの弟子となるすべての信者と共に、信者のうちにあって、教え、導き、真理を悟らせてくださるのです。
教会は聖霊について、381年、コンスタンチノープル公会議において、「主であり、生命の与え主である聖霊を」信じます、と宣言しました。さらに、675年に開催された第11トレド公会議は次のように、聖霊について言っています。「わたしたちは、聖霊が三位一体の第3のペルソナであり、神であり父と子と一体であるとともに、同等であり、唯一の実体、唯一の本性を持つ神であることを信じます。……しかも聖霊は、ただ父だけの霊でも、子だけの霊でもなく、父と子と霊と呼ばれます」と。
3 信仰に関する教えの中での三位一体
◆三位一体の教義の形成
先に、お話したように、教会はその初めから、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を授けてきました。これは、教会がいつの時代にも、信仰の根底に三位一体への信仰を置いていたということを表すものです。これだけではなく、宣教する場合にも、教義を教える場合にも、また祈りの中にも三位一体の信仰は定式化されていました。それをよく表しているのが、コリント人への第2の手紙にある「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」(13.13)という言葉です。
最初の数世紀の間、教会は三位一体の信仰を、より明らかに示すように努力してきました。教会は「実体」という言葉を用いて、神の一体性を示し、「ペルソナ」という語を用いて、互いに実際に区別される父と子と聖霊を示し、「関係」という言葉を用いて、それぞれの区別は相互の関係によることを示しました。
◆三位一体の教義
まず、「三位は一体です」ということからはじめましょう。これは、父と子と聖霊という3つの神なのではなく、三者として唯一の神だということです。父は子と同じ存在、子は父と同じ存在、父と子と聖霊は同じ存在だということです。
◆「三者はそれぞれ実際に区別されています」。
これはどういうことでしょうか。三者の区別は、それぞれの起源に由来しています。「父は生み、子は生まれ、聖霊は発出します」。この一体の神は、三位です。
◆「神の三者は、相互関係のうちにあります」。
父と子と聖霊の間の区別は、相互の関係によるものです。実際に、相互関係の違いを除けば、三位のすべては1つです。「父全体は子のうちにあり、また聖霊のうちにあります。子全体は父のうちにあり、また、聖霊のうちにあります。聖霊全体は父のうちにあり、また子のうちにあります」とフィレンツェ公会議は説明しています。
4 神のわざと三位の役割
神は自由に、ご自分の至福のいのちの栄光を分かち合おうとしておられます。この計画は、永遠の昔から、私たちのために与えられた恵みであり、三位の愛から直接に出たものです。それは、創造のみわざ、人祖が罪を犯した後の人類の救いの歴史、子と聖霊の派遣とそれが永続される教会の派遣のなかで展開されていくのです。
神の救いの営みは、すべて三位の共同のわざです。三位には、ただ同じひとつのわざしかありません。この救いの営み全体の究極目的は、神によって創造されたすべての人々が至福である三位一体の完全な一致にうちに入ることです。しかも、私たちは今、三位一体の住みかとなるように、招かれているのです。
最後の261~267までは「要約」です。ぜひ、この「要約」をお読みになることをお勧めいたします。