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第18回 創造の神秘


前回に続き、第4節「創造主」の見ていきましょう。


4 創造の神秘

神が天地万物をお造りになったという創造は、造られた人間の目から見れば、非常に神秘に満ちています。その一端をこれから、見ていきましょう。


神は英知と愛とによって創造される

世界は、偶然にできたものではありません。これまでもお話ししたように、神はご自分の幸せ、善、存在、英知にあずからせようと、人間である私たちを含む天地万物を創造されたのです。「創世記」の天地創造の話は、自然科学的な説明ではないことは、お読みになったらよくおわかりになると思います。神と人間と世界の関係について教えているものです。人も世界も、神が存在させたいと望まれた意志によって、創造されたということを描いています。


神は「無から」創造される

私たちの信ずる創造が、他の創造神話と一番大きく違うところは、この、神が「無から」、つまり、何もないところから、すべてを自由に創造されたというところにあります。 神の力が、何もない無からすべてを創造されたのです。この神は、聖霊によって、罪人の罪をゆるし、清い心を造ることができる方です。さらに、死者にいのちを与えることのできる方でもありますし、信仰の光を与え、神をまだ知らない人々に、ご自分を示すことができる方でもあります。


神は秩序あるよい世界を創造される

神が英知をもって創造された世界には、秩序があります。神は、お造りになったものに、それぞれ独自の存在意義と目的を与えておられ、世界全体として秩序を構成しているのです。神の似姿として造られた人間は、神との親しい交わりに召されています。私たち人間に、神は、すべての被造物を委ねられたのです。それは、一部の人々が誤解しているように、人間が勝手に自然や動物を殺したり、破壊したりしてもいいといわれていることではありません。すべてのものを創造された神が、そのすべてをご覧になり、「きわめてよしとされた」ように、神がお望みのように、用いることが委ねられたのです。


神は被造物を超越し、またそのうちに臨在される

聖アウグスチヌスは、神がすべての被造物を超越しておられる方であり、しかも、そのうちに存在される方として、「わたしのもっとも奥深いところよりも奥深く、わたしのもっとも高いところよりも高く」といっています。


神は被造物を支え、導かれる

神は、被造物を創造されただけではありません。無責任に造りっぱなしにはなさいませんでした。一瞬一瞬を導き、支えておられるのです。創造主のこの働きの力を知ることは、私たち人間に神への信頼の心を培い、喜びとなります。


5 神は計画を実現される-神の摂理

被造物は、完全なものとして造られたわけではありません。すべての被造物は、神がお望みになる、究極の到達点に「向かう途上」にあるものとして造られました。神がこの途上にある私たちを導かれるはからいのことを、「摂理」と呼んでいます。摂理のはからいは、具体的なものであり、直接的なものです。また、ささいな事柄から、世界と歴史にかかわるような大きな出来事に至るまでの、すべてに神の配慮は行き届いていると、聖書は教えています。

イエス・キリストは、天の父が、ご自分の子どもたちに、いつも心を配っておられることを教えてくださり、この父の摂理に信頼するように求めておられます。


摂理と第二原因

神は、すべての人、ものを幸せに導くために力を尽くされます。しかし、この方法は、被造物の協力をもとめて実現されるのです。これは、神の弱さを示すものではなく、全能の神の偉大さといつくしみを表すものです。

創世記に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして生みの魚、空の鳥、地の獣、地を這うすべてを支配させよう」と神がお望みになられたことが書かれています。これは、人間が神の摂理のわざに自由に参加するものとされた、ということを表しています。

私たちは、創造のわざを発展させ、私たちと隣人の益となるように召されています。行為と祈りをもって、また、苦しみをささげることによって、「神の協力者」「神の国の協力者」となることができるのです。

私たちは神なしには何もできない、存在すらしないものとなります。かえって、「私たちの内で働き、神のみ心を望ませ、行わせているのは神」なのです(フィリッピ2.13参照)。私たちは神の恵みなしには、究極の目的に達することもできないのです。


摂理と悪のつまずき

創造主である神が、全被造物に心を配っておられるのなら、なぜ、この世に悪が存在するのでしょうか。この質問に答えるのは、キリスト教の教え全体です。キリスト教の教えの一部だけではなく、全体を知ることによって、そのことがわかってくるのです。

神がなぜ、悪も存在しない、完全な世界を造られなかったかということは、ただ、神が被造物を究極の目的に向かう途上のものとして創造することを望まれたからという以外に答えはありません。生成への途上においては、物質的善と物質的悪が存在するのです。さらに、理性と自由意志を持っている天使と人間は、常に愛を選び取り、神に向かって歩んでいかなければなりませんが、罪を犯したため、道徳的悪がこの世に入ってきました。この世に悪があったとしても、神はその悪の結果から善を引き出すことがおできになります。

神は世界と歴史を導かれる主であることを、私たちは信じています。しかし、多くの場合、摂理によって導かれた部分に気づくことなく、すごしています。私たちが最期の時を迎え、神のみもとにたどり着いたとき、はじめて神が、どのように深い配慮をもって、私たちを導いてくださっていたかがわかるのだと思います。

315~324が「要約」として付けられています。この『カトリック教会のカテキズム』の「要約」をよく読んで、理解するようにすれば「カトリック要理」の大切な点が抑えられるようになっています。ご利用ください。

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