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第22回 原罪
今回は、人類の最初の罪について、考えてみましょう。
3 原罪
◆自由意志の試練
聖書は当時の人が理解できる様式によって書かれています。ですから、原罪についても、最初の人間が、神から「善悪の知識の木の実」をたべてはいけない、と命じられていたにもかかわらず、その木の実を食べてしまったこととして、描かれています。「善悪の知識」の木とは、神から造られた人間が、信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない超えてはいけない限界を、象徴的に表しています。神は人間をご自分にかたどって造られ、神との親しい交わりに生きるようにしてくださっていました。しかし、この神との親しさを生きるためには、創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳規範に従わなければなりませんでした。
◆人間の最初の罪
悪魔に誘惑された人間は、自由意志を濫用して、神に背きました。人類の歴史の初めに犯した罪ということで、この罪を「原罪」と呼んでいます。この罪の意味するところは、人間が、「神なしに、神に先立ち、神に従わずに、神のようになろう」としたことです。この罪の結果、最初にもっていた聖性の恵みを失ってしまいました。これまで保たれていた調和は破れてしまいました。
肉体に対する霊魂・精神の制御力は弱くなってしまいました。
男女の関係の間にも、欲望と支配欲が入り込むようになりました。
被造物との調和も崩れてしまいました。
そして、死が人間の世界に入ってきたのです。
この死は、肉体的な死だけではなく、神と一致して、神のいのちの交わりに到達できないという死の状態をも指しています。
人間が最初に神に背いた原罪以来、罪がこの世界に広がっていきました。罪を犯す人間の姿は、旧約聖書にも、新約聖書にも書かれています。聖書と伝承は、人類史に見られる罪の存在と、その普遍的広がりについて、たえず述べています。
◆アダムの罪が人類にもたらした結果
すべての人は例外なく、アダムの罪の影響を受けています。聖パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中でこのように述べています。「1人の人の不従順によって……罪がこの世に入り、……死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(5章参照)。
聖書は、このことを、人祖が楽園を追われた出来事として描いています。それは、神が人間を追い出したのでもなければ、人間が別の場所に住むようになったというのでもありません。罪が失楽園の状態を作り上げているということです。人間がいくら努力しても、「いのちの木」・神との一致に到達できない溝ができてしまったのです。人間と世界との関わりが、神との関わりとはならなくなってしまったのです。
カトリック教会は、次のように教えています。人間の悪への傾き、死の運命は、アダムの罪とその罪が、例外なくすべての人に伝えられていることの関連による以外に、理解することはできません。その罪とは、人が「霊魂の死」の状態で誕生するということです。ですから、教会は自分が罪を犯すはずのない幼児にも、罪がゆるされるために洗礼を授けるのです。アダムは、原初の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人のために受けていたのです。悪魔の誘惑に負けて罪を犯したアダムとエバは、個人として罪を犯したのですが、この罪は人間本性を傷つけたため、本性が堕罪の状態として子孫に伝わるのです。
原罪は、一人ひとりがもって生まれてくるのですが、その人が犯した罪ではありません。 原罪は原初の聖性と義の欠如であり、本来の能力は傷つき、罪の傾きをもった人間として生まれ出てくるのです。洗礼は、キリストの恵みによって、原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、原罪の影響は人間の内に存在するので、私たちは霊的な戦いをし、その影響に勝たねばなりません。
◆激しい戦い……
原罪により、人間は、悪魔にある程度支配されるようになりました。人間本性が傷つき、悪に傾いているという事実を無視することはできません。ヨハネは福音書の中で「世の罪」という言葉で、原罪とすべての人が犯す罪の結果が、世界を罪の中に陥れているということを表しています。さらに、この言葉は社会状況と社会構造とが、私たち個人にもたらす悪い影響をも指しています。このような状況の中で、私たちは激しい戦いしながら、この世を生きていかなければならないのです。
4 「あなたは人を死の支配するままにはしておかれませんでした」
人間が罪を犯した後も、神は人間をお見捨てにはなりませんでした。かえって、悪に対する勝利と堕罪からの再起を告げられました。これは「原福音」と呼ばれています。創世記3章15節をご参照ください。
キリスト教の伝承では、これを「新しいアダム」の告知と見ています。また、「原福音」で告げられている女性は、「新しいエバ」である聖母マリアである、と多くの教父や教会博士は解釈しています。しかし、神はなぜ、最初の人間が罪を犯すのを止めさせなかったのでしょうか。これは、いくら考えても、人間には計り知れないことですが、教会の偉大な聖人たちは、この問いに次のように答えています。
聖トマス・アクイナス「人間の本性は、罪の後により高い目的に向けられました。……神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかったのです」。聖パウロ「罪が増したところには、恵みはいっそう満ちあふれました」(ローマ5.20)。
今回も、最後に「要約」が付けられています。キリストの救いが理解できるためには、原罪についてよくわかっていなければなりません。ぜひ、「要約」をよく読んで、理解を深めてください。