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第25回 神の御子は人となられた


今回は、私たちが信仰宣言で唱える「聖霊によって人となり、おとめマリアから生まれ」という言葉を深めてまいりましょう。


第3項 イエス・キリストは「聖霊によって人となり、おとめマリアから生まれ」


第1節 神の御子は人となられた


1 みことばはなぜ人(肉)となられたか

この1は問いの形です。皆さんは何とお答えになりますか? みことばが人となられたのは、私たちを神と和解させ、救いに導くためです。

原罪の結果、人は神との関係が断ち切られたままの状態になっていました。父なる神は、ご自分がお造りになった人間を、再び楽園での幸いな状態(救い)に導きたかったのです。そのためには、私たちをまず、神と和解させなければならなかったのです。

みことばが人となられたのは、私たちが神の愛を知るためです。父なる神のみことば・御子が人となられたのは、私たちが神の愛を知り、その愛に生きるためです。私たちと同じ人となられてはじめて、五感を持つ私たちが、キリストを見、キリストの言葉を聞き、その愛を感じることができるようになったのです。

みことばが人となられたのは、また、私たちの聖性の模範となるためです。イエスは、「わたしは道、真理、いのち。わたしを通らなければ、だれも父のもとには行けない」とおっしゃいました。私たちは、イエスが教えてくださらなければ、その清さ、聖性を生きることはできません。イエスがたどられ、付けてくださった足跡をたどって行くことにより、私たちもイエス・キリストの教えてくださった真理に到達し、ご聖体というキリストのいのちをいただきながら、そのいのちに生きることによって、聖性に至ることができるのです。

みことばが人となられたのは、私たちを「神の本性にあずからせる」ためです。神のひとり子が、人となられたのは、私たちにご自分の神性にあずからせるためでした。別の表現をするならば、私たちを神の子とするためなのです。


2 受肉

神の御子が私たちを救うために、人間性をとられたことを、受肉と呼んでいます。使徒ヨハネは、「私たちが目で見たこと、手で触れたことをあなた方に伝えます」と手紙に書いていますが、神の御子キリストが、本当にそのような存在になられたということです。これは同時に、私たち人間のあるべき姿の完成を意味しています。

この受肉の神秘は、イエス・キリストが神の完全な自己啓示であることを教えています。神の御子が受肉されたという信仰は、キリスト教信仰の大きな特徴です。カトリック教会は、この信仰を持ち続けてきました。


3 まことの神、まことの人

神の御子は、まことの神でありながら、まことの人として受肉なさいました。教会の誕生から数世紀の間、この真理に対する異端と闘わなければなりませんでした。

教会の初期の異端は、キリストの人性を否定する「仮現説」やアリウスの異端などでした。これに対し、教会はニケア公会議を開き、「神の御子は、造られずして生まれ、父と同一実体のもの」であると公言して、異端を退けました。

ネストリウス派の異端に対して、エフェゾ公会議において、キリストの人性の主体は、神の御子の神的ペルソナ以外にはないということをはっきりさせました。さらに、同じエフェゾ公会議は、マリアを神の母として宣言し、「マリアが、神のみ子を人として胎内に宿されたことにより、正真正銘の母となられた」、と言いました。

神的ペルソナに高められて、キリストの人性は存在しないのだと異端を唱えた「キリスト単性論」者に対し、カルケドン公会議は、キリストは神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有している、と宣言しました。

キリストの人性を人格的主体と考える人々に対し、コンスタンチノープル公会議は、「肉において十字架につけられたかた、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストは、真の神、栄光の主、聖三位の一者です」と宣言しました。

このような異端と闘いながら、信仰を宣言することによって、教会は自分たちの信仰をはっきり表現していったのです。


4 神の御子が人間であるとはどういうことか

キリストが人として行われたことのすべては、聖三位の一者がなさったことです。キリストは、魂においても肉体においても、聖なる三位の神的行動様式を、人として表されたのです。


キリストの人としての魂と知恵

神の御子の人としての魂は、真の人間としての知識を備えておられます。ですから、ルカ福音書が述べるように、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」のです。人間ですから、経験によって学ぶこともありました。

しかし同時に、真の人間としての知識は、神的いのちをも表すものでした。御子の人性は、みことばとの結合によって、神にふさわしいことを知り、表しておられました。ですから、キリストは、ご自分が啓示しなければならなかった神の永遠の計画についての知識を、人間として十分にもっておられました。


キリストの人としての意志

キリストは、神としての本性と、人としての本性によるそれぞれの意志をもっておられますが、2つの意志の働きは協調していて、対立することはありませんでした。


キリストの真の肉体

キリストは受肉されたのですから、真の人間としての肉体をもっておられました。ですから、本来見えない神が、わたしたちの目で見える方となられたのです。教会は、第2ニケア公会議において、キリストを聖画像で表現することは当然であると認めました。


人となられたみことばのみ心

イエス・キリストは、私たち一人ひとりを、人間としての心で愛されました。ですから、私たちのために、十字架上でいのちをささげ、槍で刺し貫かれたイエスのみ心は、神であるあがない主が、私たちすべての人間をたえず愛しておられるすぐれたしるしであり、象徴なのです。

ここでも、最後に「要約」がつけられています。簡単にまとめられていますから、一人で勉強するときは大変役立つものです。ぜひご覧ください。

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