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第32回 キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた


前回に引き続き、キリストの受けられた苦難と十字架上での死についてお話しましょう。


3 キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた

キリストの生涯は御父へのささげものであった

神のひとり子・イエス・キリストは、人となられたその瞬間から、神の救いの計画を実現するという使命を引き受けられました。ヘブライ人への手紙に書かれているように、キリストは、この世に来られた時「ご覧ください。わたしは御旨を行うために来ました」とおっしゃいました。

すべての人の罪をあがなうため、イエスは御父のみ旨、御父のお望みを行われたのです。イエスご自身「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになったかたのみ心をおこない。そのわざを成し遂げることです」とおっしゃっています。


「世の罪を取り除く神の小羊」

イエスの先駆者であった洗礼者ヨハネは、イエスが通りかかられるのを見て「ご覧なさい。神の小羊を」と、自分の弟子に教えました。その言葉によって洗礼者ヨハネは、イエスを、旧約聖書で示されている過越の小羊であり、イザヤ預言者が述べている「苦しむしもべ」だということを示したのです。実際、イエスの使命は、その全生涯をもって、示されました。イエスはすべての人の罪を償うために、人々に仕え、最後には自分のいのちをささげられたのです。

イエスは人類のあがないに向けられた御父の愛を心底からご自分のものとする御父は人々を心から愛しておられたので、ご自分のひとり子をこの世に遣わされたのですが、イエスは、この御父の人々への愛を受け入れ、人々を愛し抜かれました。イエスは、御父への愛と、御父が愛しておられる人々への愛から、自由に自分が苦しみを受けて死ぬことを受け入れられたのです。


イエスは最後の晩餐で前もってご自分のいのちをささげられた

この世で、これまで自分と寝食を共にしてきた、愛する12使徒たちと食事をなさった「最後の晩餐」の席上、イエスはご自分の自由な心からなされる奉献を最高度に表されました。そのとき、イエスはパンを取り、「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」とおっしゃり、ついで、ぶどう酒の満ちた杯を取り、「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃいました。イエスはこのことばをもって「エウカリスティア」(感謝の祭儀、ミサ)をお定めになり、ご自分の奉献を永遠に続くものとなさったのです。こうしてイエスは、12使徒を新しい契約の祭司に任じられました。


ゲッセマネでの苦悩

最後の晩餐を終えられたイエスは、ゲッセマネと呼ばれる園に出て行かれました。そこで、ご自分が自由に、愛をもってささげた苦しみの杯を、御父から受け取られました。これから受けなければならない苦しみを前にして、イエスは父に「できることなら、この杯をわたしから遠ざけてください」と祈られるほどでした。

神でありながら人間性を取られたイエスにとって、死は私たちが感じるように、苦しく恐ろしいものでした。しかも、イエスは私たちのように、罪によって死に定められていたのではなく、罪の汚れがまったくない方でした。その神の御子が、十字架にかかり、私たちの罪をその身に担ってくださったのです。


キリストの死は比類のない決定的いけにえである

神は、キリストの死によって、私たち人類を決定的に救われました。キリストの十字架上のいけにえは、比類のないもので、あらゆるいけにえの完成であり、それらのいけにえを超越するものです。人祖が犯した罪・原罪によって、神との交わりを絶たれた人類に、神との交わりを回復させるものでした。イエスは、私たちの神への不従順の罪を償うため、自由に、愛をもって、ご自分のいのちを、聖霊によって、御父にささげられました。


イエスはわたしたちの不従順に代わって従順となられた

「ローマの信徒への手紙」の中でパウロが書いているように、一人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の人・キリストの従順によって、すべての人を救われたのです。イエスは、死に至るまで従順でした。この御父への絶対的な従順によって、すべての人の罪を担い、自分のいのちを償いのいけにえとして、ささげられたのです。


イエスは十字架上でご自分のいけにえをまっとうされる

人はどんなに聖なる人であっても、すべての人のために、自分のいのちをささげることはできません。神のひとり子であるイエス・キリストのみが、すべての人をあがなうことがおできになるのです。


わたしたちはキリストのいけにえに結ばれる

神のひとり子・イエス・キリストによるあがないのいけにえは、私たちのためですが、私たちも人間性を取られたキリストにつながっているものとして、キリストのいけにえに結ばれているのです。キリストは、私たちがキリストの足跡をたどり、キリストにならって自分の十字架を日々になっていくことにより、ご自分に従うように促されています。

「要約」が付けられています。ゆっくり読んでみましょう。

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