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第34回 キリストは死者のもとに下られた
第5項 「イエス・キリストは死者のもとに下り、三日目に復活された」
私たちは、毎週日曜日に「使徒信条」を、教会共同体の皆さんと心をあわせて、信仰宣言しています。その中に、「十字架につけられて死に、葬られ、死者のもとに下り、三日目に復活し……」という言葉がありますね。今日はその中の「死者のもとに下り」という部分について、ご一緒に考えていきたいと思います。
第1節 キリストは死者のもとに下られた
新約聖書を読んでいると、よくイエスが「死者の中から復活した」ことが述べられています。これは、イエスが復活される前に、死者のもとに下り、そこに留まっておられたことを表している言葉です。別の表現をすると、イエスが死に勝たれたことを意味しています。聖パウロは、コリントの信徒に向けて、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と叫んでいます。
イエスは私たちすべての人間が死を体験するように、イエスも私たちと同じように死に、死者のもとに下り、彼らと共におられました。これは、イエスがずっと、死者と共におられるためではなく、ご自分に先立って亡くなった人々に、「よい便り」・救いの福音を告げるためでした。
この亡くなった人々が住んでいるところを、聖書は「陰府(よみ)」とか「シェオル」とか「ハデス」と言っています。ここでは、神を見ることができない状態におかれており、正しい人であるか、悪い人であるかを問わず、すべての死者が救い主・あがない主を待っている状態にあったのです。
しかし、ルカ16.22~26の「金持ちとラザロ」のたとえ話を読んだことのある方は、ちょっとおかしいぞ、と思われるかもしれませんね。確かにそうです。全ての死者が陰府でイエスを待っていたのですが、このたとえ話でイエスが示されたように、死んで陰府の国に下ったラザロと金持ちの状態は同じではありませんでした。イエス・キリストが死者のもとに下られたのは、このラザロのような「アブラハムのふところにいる」と表現されているような人々に解放のよい知らせを伝えるためだったのです。
メシア・救い主として、イエス・キリストは、すべての人に救いが及ぶために、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった」(ヘブライ2.15)死者のもとに下り、正しい生き方をして、イエスより先に亡くなった人々を解放し、決定的な救いをもたらされたのです。これは、救いのわざがすべての時代、すべての人に及ぶことを表すものです。
使徒言行録は、イエスを「いのちの導き手」と呼んでいますが、こうして、「天上のもの、地上のもの、地下のもの」がすべて、「いのちの導き手」であるイエスに導かれて、救いを得るのです。
聖土曜日の静寂を思い起こしましょう。死者のもとに下られたイエスが、復活を前にして、すべての死者に対して、救いが成就され、罪の束縛から解放されたことを告げておられるのです。
中世に描かれた名画の中には、「古聖所くだり」と題されたものがたくさんあります。死の国に下られたイエスが多くの人の手を引いて、お墓から出ていらっしゃるところを描いている図柄が多いのですが、この絵がまさに「キリストが死者のもとに下られた」ことを描いているのです。
最後に短い「要約」が書かれています。大切に読んでみましょう。