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第83回 救いの営みにおけるエウカリスチア


第3項 エウカリスチアの秘跡


前回は、エウカリスチアの秘跡が、いかにいろいろな名前で呼ばれているかをご一緒にみてみましたが、今日は、私たちの救いとどれほど深い関係があるかについてお話したいと思います。


3 救いの営みにおけるエウカリスチア

感謝の祭儀(エウカリスチアの祭儀)を行う時、パンとぶどう酒はなくてはならないものです。それは、最後の晩餐において、キリストが制定されたように、教会はキリストの命じられたとおり、パンとぶどう酒をキリストの体と血に変え、この祭儀を世の終わりまで祝い続けるからなのです。

ミサの奉納において、私たちはパンとぶどう酒を私たちに与えてくださった神に感謝の祈りをささげます。このパンとぶどう酒は、「人間の労働の実り」である前に、創造主の恵みである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」です。

旧約時代、アブラム(アブラハム)にパンとぶどう酒を差し出し、祝福を与えたサレムの王メルキゼデクは、キリストを前もって指し示している人です。

パンとぶどう酒に関する旧約時代のことを少し振り返ってみましょう。 この時代の人々は、創造主への感謝を表すために、初物の中から、パンとぶどう酒を神に供えていました。神がエジプトから脱出させてくださったことを記念する「過越祭」に、イスラエル人は種なしパンを食べますが、これは、急いでエジプトを出なければならなかったからです。

その後、彼らは40年の間、荒れ野の旅を続けましたが、その時に食べていたものは、神から与えられたマナでした。このマナの記憶は、イスラエルの人々にとって、自分たちが神の言葉を糧として、生きていることを思い出させるものでした。約束の地に入った彼らが毎日食べたパンは、約束の地の実りであり、神の誠実さの保証でした。

「過越祭」の終わりに飲む「賛美の杯」は、メシア時代への待望の喜びがあります。イエス・キリストは、これらのパンとぶどう酒に、新たな意味を付与し、ご自分のエウカリスチアを制定なさったのです。イエスは、パンの増加の奇跡を行われ、多くの人々を養われましたが、これは、ご自分の制定されたエウカリスチアでの唯一のパンが、ありあまるほど豊かなのものであることを、前もって示されたものでした。

聖体に対するイエスの最初の予告は、弟子たちに分裂をもたらしました。ご自分の体をパンとして与えてくださるという「キリストの聖体」と神の子が十字架の死によって、私たちを救ってくださるという神秘、神の深い愛は、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも去って行きたいか」という問いかけは、今の時代にも投げかけられています。それは、聖体をいただくことは、キリストご自身をいただくことなのだという信仰を表すことであり、キリストの私たちに対する愛の招きでもあるのです。

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