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第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存

死んで復活されたキリストが、さまざまな仕方で、教会に現存してくださいます。

ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りのうちにキリストは現存してくださいます。さらに、マタイ福音書の中でキリストが約束してくださったように、「二人または三人が」キリストの名によって集まるところには、その中にいてくださいます。また、同じマタイ福音書は、貧しい人、病人、囚人のうちにキリストが共にいることを語られたイエスの話を、私たちに伝えてくれます(マタイ25.31~46)。

さらに、ご自分の制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえ、ならびに司式する司祭のうちに現存されます。しかし、とくに、聖体の両形態のもとに、キリストは現存しておられます。

聖体の両形態のもとでキリストが現存なさるというあり方は、比類のないものです。そのために、エウカリスチアは、他の秘跡よりも上位の秘跡とされ、信者の霊的生活を完成させるもの、他のすべての秘跡が目的とするもの、と言われています。

エウカリスチアの秘跡の中には、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。全キリストとは、主イエス・キリストの霊魂と、神性に結ばれたからだと血をさしています。この全キリストが、エウカリスチアの秘跡において、現実に実存しておられるのです。パンとぶどう酒がキリストのからだと血に変わることによって、キリストは、この秘跡のうちに現存するものとなられるのです。

トリエント公会議は、「聖体についての教令」を出していますが、その中で、次のように宣言しました。

パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます。

聖体にキリストが現存されるのは、聖別の時からです。この現存は、パンとぶどう酒という形態が存在するかぎり続くものです。パンが裂かれても、その部分のうちに、キリストが全体として現存しておられます。パンが半分になったので、キリストが半分しか現存されないということはありえないことなのです。

聖体礼拝---
聖体の秘跡のうちに現存なさるキリストへの信仰を表し、ミサにおいても、ミサ以外においても、礼拝することを聖体礼拝と呼んでいます。修道院や教会などで、聖櫃の扉を開け、参加者にご聖体を見せて礼拝したり、祭壇の上に聖体をふさわしい器に入れて顕示し、礼拝したりします。ある地方によっては、聖体行列をするところもあります。これは、聖体を顕示しつつ、行列するものです。

聖体を保存する聖櫃は、聖堂内の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時にキリストが現存しておられるということが、はっきりと表現される形で作られる必要があります。

キリストは、最後の晩餐において、私たちを極みまで愛し抜かれ、十字架上でいのちをささげてくださいました。キリストは、ご自分の愛の形見として、聖体を私たちに残されたのです。このように、比類ない形で、キリストは私たちへの愛を表し、私たちと共に留まろうとなさり、神秘的に現存されるのです。

このキリストの現存について、聖トマスは、「感覚によってではなく、信仰によってのみ把握される」ことなのだと述べています。

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