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第107回 キリストの祭司職への二通りの参加

 

キリストの祭司職への二通りの参加

キリストは、神と人との唯一の仲介者であり、大祭司です。このキリストは、神の民である教会を「父である神に仕える祭司の王国」としてくださいました。ですから、私たち信者の教会共同体が、祭司的な団体となったのです。

私たちは、洗礼によって、祭司、預言者、王であるキリストの使命に参与しています。しかし、その参与のあり方は、その人が受けた召命によって異なっています。

信者である私たちは、洗礼と堅信の秘跡によって、「聖なる祭司職」をもつ者となるように聖別されています。この信者の祭司職は、洗礼の恵みによって生じる信仰、希望、愛の生活、霊による生活の中で実現されるものです。これを「共通祭司職」と呼んでいます。一方、「職位的祭司職」と呼ばれるものもあります。これは、司教、司祭の職位的、位階的祭司職を指しています。

この「職位的祭司職」も「共通祭司職」も、キリストの唯一の祭司職に参与するものです。 しかし、「職位的祭司職」は、「共通祭司職」に奉仕し、すべてのキリスト者の洗礼の恵みの展開を助けるものです。ですから、「職位的祭司職」は、キリストがご自分の教会を築き、導くために用いられる一つの手段です。この「職位的祭司職」は、叙階の秘跡によって現代まで受け継がれてきたものです。

 

頭であるキリストの代理者として

叙階の秘跡を受けた司教や司祭たちは、教会の頭であるキリストの代理者として行動します。それは、彼らが教会の奉仕を果たすときには、キリストご自身が、そのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師として教会に現存しておられるということを意味しているのです。その意味で、アンチオケの聖イグナチオは、次のような美しい言葉を残しています。「司教は父である神の生きている像のような存在です」と。

キリストの現存を現す司教、司祭という役務を果たすからといっても、これら役務者が完全無欠の人になるということではなく、人間的な弱さもかかえながら神の民の奉仕のために尽力するのです。 これらの人々が弱さを持っていると言っても、秘跡を授ける場合には、その秘跡を受ける人々に神の恵みをもたらす妨げとなることはありません。

叙階の秘跡は、キリストの「聖なる権能」を与えるものですが、キリストが行使された祭司としての務めは、愛によって、一番低い者となり、すべての人に仕えることでした。ですから、この祭司職は「奉仕の役務」です。それも、単なる奉仕というだけではなく、真の「服務」です。キリストと人々のために服する務めなのです。

 

……「全教会の名で」

叙階の秘跡を受けた役務者が、教会の祈りを神にささげるとき、特に、エウカリスチアのいけにえ(ミサ・感謝の祭儀)をささげるとき、彼らの行動は、全教会の名で行動しているのです。この「全教会の名で」という表現は、キリストのからだである全教会は、キリストの愛の霊である聖霊と一致して、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」父である神に祈り、自らをささげていることを表しています。

全教会というとき、頭と肢体とが一つになったからだ全体を意味しています。頭と肢体が一つになって、からだ全体が祈り、自らをささげます。ですから、その意味で役務者は、「キリストの役務者」「教会の役務者」と呼ばれているのです。

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