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第129回 幸福への願望
2 幸福への願望
私たちは皆、幸せになりたいと思っています。この思いは、誰一人例外なく持っている望みではないでしょうか。前回、「真福八端」は、イエスの教えの中心とも言えるもので、これこそ、私たち人間がどのように生きたら幸せになれるかを、イエスが教えてくださったものだということをお話しました。
ですから、この「真福八端」は、私たち皆が心に抱いている「幸せになりたい」という望みに応えるものです。そして、「真福八端」の意味する内容は、私たちみんなが、神様から一人ひとり愛されて造られた、その瞬間から心に刻みつけられている望みでもあるのです。この望みこそ、神が私たちを、ご自分に引き寄せるために、私たちの心に植え付けられたものです。
ですからその意味で、すべての人間にとって、「真福八端」は人生の目的であり、私たちが日々行っている行為の究極的な目的を明らかにしてくれるものといえるでしょう。
これは、神がご自分の至福に、私たち人間をあずからせようと招いておられるからです。この招きは、神が一人ひとりに呼びかけられているのはもとより、新しい神の民である教会のメンバー一人ひとりに呼びかけておられるものです。
3 キリスト教的至福
新約聖書には、神が私たち人間を招いておられる至福について、いろいろな表現を用いて、私たちにわからせようとなさっています。「神を見る」「主の喜びに入る」「神の安息にあずかる」など、いろいろな表現がされています。
神が私たちにいのちを与えられたのは、私たちが神を知り、神に仕え、神を愛して、神の至福にあずかるためです。神の至福とは、キリストの栄光と、三位一体の永遠のいのちにあずかることを意味しています。
このような至福は、神からのまったく無償の恵みとして与えられるもので、人間の知性や力を超えているものです。ですから、この恵みと神の至福に入るための助けの恵みは、「超自然的恵み」と言われます。
私たちに約束されている永遠の幸福を、富や安楽な生活や人間的名誉や権力、地位などに求めても得られるものではありません。あらゆる善と愛の源である神のうちにしか、その至福はないのです。ですから、この至福に入るために、私たち人間は、悪を捨て、善を選ぶという決定的な倫理的選択をしなければならないのです。
神の十戒、山上の説教などのイエスの教えは、私たちを、天の国に導く道を示しているものです。私たちは、神の恵みに支えられながら、キリストの言葉に養われながら、この道を自分に与えられた日々の生活を確実に歩みながら、教会の中で徐々に永遠のいのちの果実を実らせていくのです。
最後に「要約」が付けられています。ぜひ、ご覧ください。