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第133回 よい行いと悪い行い
2 よい行いと悪い行い
私たちがある行為をしたとき、それが倫理的によい行いであるためには、前回見た、倫理性の「源泉」「構成要素」として挙げた3つの要素が、すべてよいものでなければなりません。
その構成要素とは、対象、目的、状況です。
悪い目的をもって、ある行為をした場合、対象がよいものであっても、その人の行った行為を悪いものとします。これには、聖書の中でイエスが大変嫌っておられた偽善的な行為が挙げられます。たとえば、人から褒められようとして、広場で祈ったり、断食をすることなどです。
選択の対象となるものの中には、それ自体で、行為全体を悪いものにするものもあります。このことを選択した場合には、どんな場合でも誤りであるという具体的な行為として挙げられることは、私通です。なぜなら、この選択には、意志の歪み、すなわち、倫理的悪が伴うからです。
ですから、人間的行為の倫理性を判断する場合、つまり、その行為がよい行いか悪い行いかを判断するときには、ただ、それを行う意向、あるいは、そうさせる状況だけを考えて判断することは、間違いです。状況ということを考えるとき、私たちを取り巻く環境、社会的圧力、恐怖、あるいは行為の必要性なども含まれます。
しかし、状況や意向とはかかわりなく、その対象のために、それ自体として、つねに重大な罪となる行為があります。冒涜、偽証、殺人、姦通などがその例です。
どんなことがあっても、よい結果を得させるために、悪を行うことはゆるされません。
ここにも、簡単な要約が付いています。ぜひ、ご覧ください。