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第152回 権威 –(1)


第2項 社会生活への参加


1 権威 –(1)

社会生活への参加という項目の最初に、権威が出てくるのを不思議に思われるかもしれません。しかし、これからご説明すれば、「ああ、そうか」と納得していただけることと思います。

日本は、平和な国だと言われています。日本ではあまり報道されませんが、アフリカのある国のように、毎日のように、銃撃戦が続いている国に比べれば、確かに、平和と言えるかもしれません。考えてみますと、わたしたちの人間社会には、正当に権威を与えられて、秩序を保ち、最小限、共通善のために尽くす人がいなければ、社会は混乱してしまうでしょう。このような人がいなければ、秩序ある、豊かな社会は生まれてきません。

ですから、「権威」を定義すればば、「権威」とは、人々に法と命令を与え、それを受けた人々はそれに従わなければならないような、個人、あるいは、団体と言えます。

わたしたちが属している社会、別の言葉で言えば、共同体は、どんな共同体でも、権威が必要です。なぜなら、権威は、人間の本性に基づいているもので、市民社会の統一のために必要なものだからです。

権威の役割は、社会の共通善を最大限に保証することにあります。ですから、与えられた権威を行使する人、または団体が、社会の共通善を最大限に保証するように努力しているか、あるいは、そのように実現しているかを、私たちは自然に判断し、評価をくだすのです。

権威の中でも特に、倫理的秩序のために必要な権威は、神に由来しています。聖パウロがローマの信徒に宛てた手紙に書いているのは、この意味においてです。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13.1)。

しかし、政治体制の決定と政府の指名は、国民の自由意思にまかされているものです。国民がどの政治体制を選んだとしても、その国、共同体の合法的な善に寄与するものでなければなりません。もし、自然法や治安、人間の基本的人権に反する政治体制だとするならば、その政治体制は、国家の共通善を実現することはできません。

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