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第154回 共通善 –(1)



2 共通善

「共通善」と何度も申し上げてきましたが、これまで、共通善についての定義的なことについては、触れていませんでした。そこで、これからは、共通善そのものについてお話しいたしましょう。

共通善とは、「集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体である」とカテキズムでは定義づけられています。

この定義から私たちが分かることは、私たち一人ひとりの善は、共通善と密接な関係があるということです。その一方、共通善は、個人の善を考えに入れることなしには、決定されてはいけないということです。ですから、共通善は、すべての人の生活にかかわるものです。私たち一人ひとりはもとより、権威を行使する人の側には、いっそうの賢明さが要求されます。

共通善には、3つの本質的要素があります。

第1の要素は、個人をその人であるがゆえに尊重することです。共通善を実現するために、権威を公に行使する人々は、個人個人が持っている基本的人権を尊重しなければなりません。この権利は誰も奪い得ないものです。

社会は、その構成員の一人ひとりが持っている召命を実現できるようにしなければなりません。ここで言う召命とは、広い意味で言われる召命で、神が人間を創造されたとき、その一人ひとりに与えられた神の似姿としての人間性を生きることです。

ですから共通善は、その人間の召命を実現するために欠くことのできない、正しい良心に従って行動する自由、プライバシーを守る権利、信教の自由も含む、正当な自由を享有するものとしての権利を行使する諸条件を整えるように要求するものです。

第2の要素は、共通善が集団の社会的安寧と発展を求めるものであるということです。すべての社会的任務は、「発展」という言葉で表現できるものです。

権威者は、それぞれの人が、真に人間らしい生活を送るために必要なもの-食料、衣服、健康、仕事、教育や教養、適正な報道、家庭を持つ権利など-を手に入れやすくなるよう図らなければなりません。

第3の要素は、平和です。つまり、共通善には、正しい秩序の持続や保全という内容が含まれています。権威者は、適正な手段を用いて、社会とそのメンバーである一人ひとりの安全を図らなければなりません。

共通善こそが、個人と社会の合法的防衛権の土台となる大切なものなのです。

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