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第161回 道徳的自然法 –(1)
1 道徳的自然法
天地万物を造られた創造主である主は、人間をお造りになったとき、人間が自分の行為を支配し、真理と善に基づいて、自分を治めるという能力をお与えになりました。その意味で、人間は創造主の英知と善に参与している存在だと言えます。
ここで述べる自然法とは、人間が善悪、真偽を理性によって見分けることができるようになる本源的な道徳的感覚を映し出しています。つまり、これは、私たち一人ひとりが魂のうちに、神によって刻まれた自然法を持っているということです。
これによって、私たちが日々体験しているように、これはよいことだから実行しようとか、あるいは、これは何となく悪いことだという感じがするから、気をつけようと判断しているのです。
神的な道徳法と呼ばれるものもあります。これは、善を行って自分の目的に到達するために取るべき道を人間に示すものです。神は、すべての善の源であり、判定者です。自然法は、道徳生活を規制する主要で本質的なおきてを示すものです。
その基本となっているものは、私たちが創造のときに、植え付けられた神へのあこがれと服従の心です。それとともに、他人を自分と等しいと思うことができる感性でもあります。
その基本的なおきてが示されているのが、十戒です。十戒が、自然法と言われるのは、この法を命じる理性が、人間には本性的に備わっているからです。
別の表現で言えば、自然法は、神が私たちにくださった知性の光にほかなりません。これによって、私たちは、なすべきことと避けなければならないことを知るのです。この自然法は、ですから、創造のときに、神から人間に与えられたものということがわかります。