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第165回 新しい法、または福音の法 –(2)
4 新しい法、または福音の法 –(2)
前回に続いて、「新しい法、福音の法」についてお話いたしましょう。
マタイ福音書の山上の説教の中で、イエスは、「昔の人は……言っている。しかし、わたしは言う……」と、おっしゃっているところがあります。これは、旧約の古い律法の完成は、福音の法によってなされるのだ、ということをイエスが教えてくださっている箇所です。
イエスがこの世に来られたのは、旧約の道徳法を廃止なさるためではありませんでした。かえって、その中に秘められた潜在力を引き出し、新たな生き方を明らかになさったのです。こうして新たな掟を加えるのではなく、掟を実行するときの行為の源である心を徹底的に改めるように勧められたのです。
イエスの時代の人々は、「汚れ(けがれ)」ということに、非常に敏感で、そのことに心をつかいました。これは「汚れているか、どうか」ということを考え行うのは、心においてです。さらに、信仰、希望、愛とともに、他の徳が培われるのも、この心においてなのです。
こうして、福音は、天の御父の完全さに倣い、敵をゆるし、迫害する者のために祈るということを教え、律法の完成にまで至るようにわたしたちを導いていくのです。
福音書の中のイエスは、敬神の行為である「施し、祈り、断食」を実行しているファリサイ派の人々が、「人に見られたい」とか、「尊敬されたい」という心で実行していることをとがめ、かえって「隠れたところで見ておられる御父」に心を向けて実践するようにということを教えられます。
わたしたちが、日々、何度も唱えている「主の祈り」によって、そのことがわかります。