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第192回 希望
前回は、「信仰」についてお話いたしました。では、次はもうお分かりのように「希望」についてです。
わたしたちの心の中を覗いてみると、何かの「希望」をもっていることに気づきます。小さな子どものときは、両親と一緒に、どこかの山や海に遊びに行く、ということが希望だったかもしれません。しかし、大きくなるにしたがって、もっと自分の将来に目を向けたものに希望の対象が向かっていくものです。
いのちの大切さに気づきはじめると、永遠に続くいのちがほしい、と望むようになります。その永遠のいのちは、神さまだけがお与えになることができるものです。この永遠のいのちを、わたしたち人間に与えたいと、神はご自分のひとり子・イエス・キリストをわたしたちに啓示して、その神の愛に招いておられるのですが、わたしたち人間の力だけでは、その神さまの愛に完全に応えようとしても、なかなか応えることができないことは、日々の生活で、イヤというほど経験しています。わたしたちは、神を愛し、神が語られる愛のおきてに従って行動する能力を、神さまが自分に与えてくださるように希望する以外にすべはないのです。
ですから、このような希望を定義するとすれば、次のように言うことができるでしょう。「希望とは、神を信頼して神の祝福と、神の至福直観とを期待することです」と。「至福直観」という言葉をはじめて聞いた方もいらっしゃると思いますが、簡単に申し上げれば、死後、神を直接に仰ぎ見る幸いな状態を指している言葉です。
この定義は一方では、わたしたちが神の愛に背くことなどについても考えさせます。神の第一のおきては、ですから、わたしたち人間に、絶望やうぬぼれなど、希望に反する罪を禁じているのです。
絶望とは、自分が救われることや、救いを得るための必要な助けを神が与えてくださらないと思い込み、神が聖書や教会の教えを通して、神がどんなにあわれみ深い方であるか、そのためにイエスがどのような生涯を送られたのかも信じられず、神へ期待することをあきらめてしまうことです。また、自分が罪深いものなので、神が決して救ってはくださらないと思い込んだりすることです。
わたしたちは、聖書を読むと、神がどんなに慈しみ深い方かがよく分かりります。神は、人間と交わした約束を決して破られませんでした。神との約束を破るのは、いつでも人間のほうでした。ですから、絶望に陥ることは、ご自分の約束に忠実な神が、どんなに慈しみ深いか、あわれみに富んでおられるかを忘れ去っているという、神さまに背く罪ということになります。
うぬぼれには、考えてみると、二つの種類があります。
1. 自分の能力を過信すること。
これは、神の助けがなくても、自分の力だけで救われる、と思うことです。
2. 神の全能とあわれみとを過信すること。
これは、自分は回心しなくても赦しが与えられるのだと思い込むこと。また、善行などの「いさおし」がなくても、神の栄光に迎え入れられるのだと過信することです。