5 Laudate | カテキズムを読もう

home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第3編 キリストと一致して生きる>第2>第198回 わたしのほかに神があってはならない

カテキズムを読もう

バックナンバー

第198回 わたしのほかに神があってはならない


先日のミサの集会祈願で、「洗礼を受けたすべての人が、神に忠実に歩むことができますように」という意味のことを祈りました。ミサで大切な公式祈願の初めの集会祈願で、このように神に助けを求めているということは、これからご一緒に学ぶ「わたしのほかに神があってはならない」というおきてを守ることが難しいからだと感じました。


1 わたしのほかに神があってはならない

この第1のおきては、唯一の主としてご自分を、わたしたちに現してくださった神以外の神々を拝んではならないというものです。この中には、迷信や神への不敬が含まれています。

◆ 迷信

迷信とは、宗教の一種の行き過ぎであり、ゆがみだと指摘されています。これを、別の表現でいえば、宗教心や、その宗教心の実践から逸脱することといます。これは、日本の社会においては、「それは迷信ですよ」といわれているものがたくさんあります。どういうものが「迷信」といわれるものなのでしょうか。

わたしたちが日頃大切にして行っている信心業でも、それに何か魔術的な効果を帰す場合、それは信心業から逸脱したものになります。例えば、ロザリオの祈りにしても、イエスを黙想しながら、こころを込めて正しい意向をもって、祈るのではなく、このロザリオをもって、「わたしの息子を困らせている○○さんが、不幸になりますように」と祈っていたとすれば、それは神に喜ばれる信心業ではないだけではなく、迷信になりさがっているといるでしょう。

例えば、病者の塗油の秘跡を受けると元気を取り戻すので、元気になるためにこの秘跡を受けましょうと考えたりすることは、祈りのことばや秘跡のしるしなどの単なる外面的な要素に効力があると考えていることです。これも迷信といるでしょう。

前へ 

▲ページのトップへ