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第202回 わたしのほかに神があってはならない –(5)


◆ 無神論

日本人の方で、特に、男性の社会人に中には、「いやあ、わたしは無神論で、特定の宗教を持っていないのですよ」、と言われる方がいらっしゃいますね。あなたの、周囲の方々のは中には、そういう方もいらっしゃるのではありませんか。日本では、特定の信仰団体に属していない、という意味で「無心論者」という言葉を使っておられる人が多いようです。

ところが、外国の方とお話しすると、この「無神論」という言葉を、非常に厳密に使っていらっしゃるように感じます。わたしがお話しした方は、わたしがカトリック信者で、三位一体の神を信じているのと同じように、「わたしは、神がこの世にいないことを信じています。」と、一つの信仰を持っているように話されたのが、印象的でした。

第二バチカン公会議で出された『現代世界憲章』の中には、「現代のもっとも重要な課題の一つ」と無神論のことを言っています。

無神論は、大変いろいろな姿をとっているので、多くの人々は、それが無神論であるかどうかに気づかずに、無神論者になっていることがあります。通常見られるものは、実践唯物論的な形態で、現世的な事柄だけを追求するものです。

無神論的ヒューマニズムもあります。すべてを人間中心に考える思想です。人間は「自己目的で、歴史の唯一の製作者、創作者」のようなものであるという考えを持っています。これが、誤った考えであるということは、よくお分かりのことと思います。

現在見られる、もう一つの無神論は、人間を経済的に、社会的に人間を解放するためには、宗教は本質的に、人間解放を妨げるものである、と考えるものです。この人々は、死後の生命を信じず、宗教は、永遠の生命への希望を人に抱かせることによって、この世の国の建設に向けさせない、と説くのです。

以上の考えからもお分かりのように、無神論は、神の存在を認めなかったり、拒否するものなので、敬神徳に反する罪なのです。ただし、この罪の責任は、すべて無神論の発生と普及に貢献した人たちばかりではありません。信徒であるわたしたちにも、その責任の一端がある場合もあります。たとえば、キリスト教の教え、教義について問われた時、自分の勉強不足から、誤っていい加減に教えたりしたことによって、その人が間違ってキリスト教を誤解したりすることもあります。また、宗教的、道徳的、社会的生活において、キリスト者が真の姿を示さず、隠したりすることによっても、誤解を生じさせることもあります。

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