キリスト教マメ知識
コンクラーベ(教皇選挙)
教皇の死去に伴って、次の教皇を選挙する会議のことを、コンクラーベ(CONCLAVE)といいます。コンクラーベは、語源的にはCUM(とともに)+CLAVIS(鍵)、つまり「鍵とともに」を意味しています。
なぜ、コンクラーベというようになったのでしょうか? 「教皇選挙の歴史」を見てみるとよくわかります。
その他、「コンクラーベ」に関連する言葉を集めました。下記の項目からご覧ください。
聖ペトロ大聖堂
使徒座空位と教皇選挙
教皇選挙の歴史
使徒座空位(セーデ・ヴァカンテ)
教皇は、イエス・キリストによって後継者とされた使徒聖ペトロの後継者です。
使徒座とは、教皇と教皇庁の諸官庁・諸機関を含むものです。
教皇の死去から、新教皇が選ばれるまでの期間を、使徒座空位と呼んでいます。
空位期間だけに通用するメダル、切手、硬貨が発行されますが、マニアたちはこれらを収集しようと必死になっている姿が、この間に見られます。
教皇の喪服
いつもは白の教皇服を着用しておられた教皇ですが、亡くなられると赤い祭服、赤い靴を着用して、棺に納められます。
棺台(カタファルク)
教皇の遺骸は、三重の棺に安置されるのですが、特に、2番目の棺のことを、「棺台(カタファルク)」と呼んでいます。それは、聖ペトロ大聖堂にご遺骸を安置して、亡くなられた教皇に最後の別れをするために、2番目の棺に安置するからです。
パオリーナ礼拝堂
パオリーナ礼拝堂は、システィーナ礼拝堂の側に位置していますが、一般公開されていないので、知られていません。
しかし、コンクラーベでは、午前中に聖ペトロ大聖堂でミサが行われたあと、午後から、この礼拝堂に枢機卿たちが集まり、行列し「ベニ・クレアトル・スピリツゥス(聖霊を求める祈り)」を歌いながらシスティーナ礼拝堂に入っていきます。
この礼拝堂には、ミケランジェロ晩年の作品である「聖ペトロの殉教」と「聖パウロの回心」の壁画があることでも有名です。
システィーナ礼拝堂
コンクラーベが開催される場所が、ミケランジェロが描いた大作の天井画や「最後の審判」があるシスティーナ礼拝堂です。
コンクラーベは、第252代の教皇レオ12世(1823~1829)から、ローマで行われるようになりました。システィーナ礼拝堂で行われるようになったのは、第256代の教皇レオ13世からです。
ヨハネ・パウロ2世の選挙までは、システィーナ礼拝堂内に、宿泊する場所もしつらえられ、選挙期間中、外部と遮断され、この礼拝堂から一歩も外に出ることができませんでした。
しかし、ヨハネ・パウロ2世は、バチカン内に聖マルタ館(ドームス・サンタ・マルタ)を建て、コンクラーベの際の枢機卿たちの宿舎としました。
インフィルマリ
教皇選挙を行う際に、出席している枢機卿が病気になった場合を配慮して、3人の枢機卿がくじで選ばれます。この3人の枢機卿のことを、「インフィルマリ」と呼んでいます。
病気のため、部屋から出られない枢機卿がいる場合、インフィルマリは、投票用紙と投票箱をもって、その枢機卿の部屋に行き、投票してもらいます。
投票用紙
投票用紙は長方形で、二つ折りにできるようになっており、上部に、「私は、ローマ教皇として、選ぶ(Eligo in Summum Pontificem)」と印刷されています。下半分のところに、選ぶ人の名前を書きます。
投票内容は秘密なので、筆跡が他の枢機卿にわからないように名前を書かなければなりません。しかし、はっきり読めるようにも書かなければならないのです。 この投票用紙は、新教皇が決まった場合、システィーナ礼拝堂の選挙会場に置かれたストーブから、白い煙が出るように乾いたわらと化学薬品をまぜて燃します。
まだ新教皇が決まらない場合には、投票用紙は湿ったわらと黒色を発する化学薬品と一緒に燃されます。
煙突・煙
システィーナ礼拝堂に行かれたことのある方は、「あそこにストーブなんかあったかな、気づかなかった……」と思われるでしょう。それも当然です。
教皇選挙があると決まるとすぐに、投票用紙を燃すためのストーブが準備されるのです。このストーブは、どの教皇選挙のときから使われたかということがわかるように、教皇名が刻んである銅板のプレートが付けられています。
教皇選挙の結果を一番早く知るためには、このシスティーナ礼拝堂の選挙会場から出る煙に頼るほかありません。そのため、各国のメディアは、カメラをこの煙突に向けて待機するのです。
白い煙は、新教皇の決定。黒い煙は決まらなかったしるしです。
白い煙は、投票用紙と乾いたわらと化学薬品を燃すのです。黒い煙は濡れたわらと化学薬品を一緒に燃します。最近までは、化学薬品を一緒に燃さなかったので、しばしばどちらの色か判別できないという状況がありました。そのために、化学薬品が焚かれるようになりました。
聖マルタ館
これまでのコンクラーベでは、使用される唯一の場所が、システィーナ礼拝堂でしたが、今回からのコンクラーベでは、選挙はシスティーナ礼拝堂で、宿泊は聖マルタ館でと決められました。
これは、俗に「コンクラーベの年」と呼ばれている1978年に、2回のコンクラーベを経験したヨハネ・パウロ2世が、システィーナ礼拝堂にしつらえられた宿舎が、高齢の枢機卿たちにとってあまりにも厳しすぎると感じられたために、聖マルタ館をバチカン内に建設したと伝えられています。
なお、聖マルタ館は、通常は、世界中から会議などのためにバチカンを訪れる司教や枢機卿たちのための宿舎として使われています。
ウルビ・エト・オルビ
「ローマ市と全世界に」の意味で、新教皇が選ばれた際に、聖ペトロ大聖堂のバルコニーから、最初にする祝福と挨拶は、この「ウルビ・エト・オルビ」です。
なお、「ウルビ・エト・オルビ」は、クリスマス、イースターなど、大祝日や特別な行事のときに、教皇が祝福を与える際にも使われる言葉です。
ヨハネ・パウロ2世ほど、多くの言葉でこの挨拶をした教皇は、いままでありませんでした。1981年に日本にいらっしゃってからは、日本語も使われるようになりました。
白い教皇服
教皇は、いつも白い教皇服をお召しになっておられますが、冬は白のウール、暑い夏用のためには白い麻のものを着用なさいます。
教皇服を正確に説明すると、白いスータンを着、白いズッケットをかぶり(お椀型の帽子)、白いサッシュを締めておられます。そのサッシュの両端には、教皇紋章がきれいに刺繍されています。寒いときは、その上にダブルのオーバーを着たり、赤のマントを着用されることもあります。
この教皇服は、200年にわたり、一軒の仕立屋さんが作っています。
コンクラーベが始まると、サンタ・キアラ通りにある「ガマレッリ」という仕立屋に連絡が入り、すぐに大・中・小の白い教皇服を準備し、バチカンにかけつけるのです。
新教皇が決まるとすぐに、その大・中・小のサイズの中から選び、バチカン広場に集まっている人びとに、すぐにバルコニーから最初の祝福をしなければなりません。
- 最初のローマ人教皇――第3代教皇聖アナクレト(78~88)
- 最後のローマ人教皇――第260代教皇ピオ12世(1939~1958)
- 最初のイタリア人教皇――第2代教皇聖リノ(67~76)
- 最後のイタリア人教皇――第263代教皇ヨハネ・パウロ1世
- 最後の非イタリア人教皇――第265代教皇ベネディクト16世