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第2バチカン公会議から50年

刷新と反動のはざまに 第2バチカン公会議の改革その2

ホアン・マシア

イエズス会士

ヨハネ二十三世が、バチカンの窓を開けて教会内の風通しを良くしたのであれば、パウロ六世は、全世界へ出かけて旅する教会のすがたを示した教皇でした。1964年に聖地に旅し、東方教会の首位アテナゴラスと話し合いました。1965年に国連で平和を訴えました。1967年にメデジンで解放の神学がめばえた南米司教団会議に参加し、貧しい人々の側に立つ教会を励ましました。1969年にアフリカ(ウガンダ)へ、1970年にアジア(フィリピン)へ赴いて異文化および諸宗教とキリスト教との出会いのためにはたらきかけました。

公会議後の十年間の光と影

1965年(第2バチカン公会議『現代世界憲章』発布)と1975年(パウロ六世の使徒的書簡『福音宣教』発表)の間の十年間は公会議による教会改革にとって決定的であったと同時に、改革に歯止めをかける反動が芽生え、後戻りの兆しが注目され始めるときでもありました。前者の実りは回勅『諸民族の進歩推進について(ポプロールム・プログレシオ)』(1967年)であり、後者にお墨付きのしるしを与えたのは回勅『フマネ・ヴィテ』(1968年)でした。

刷新と反動の間で教会が揺れ動いたパウロ六世の在位期間(1963年6月21日~1978年8月6日)の光と影の点を思い起こしたいと思います。

まず、光の点としていくつかの例をあげましょう。1969年に新しいミサ式次第が発布されます。1967年に南北問題に気づかせ、抑圧されている諸発展途上国の諸民族の権利を訴える『ポプロールム・プログレシオ』を発表した教皇は、貧富の差を告発して社会正義の国際化を訴えました。ちょうどその年に教皇は教皇庁で二つの重要な機関、「正義と平和評議会」と「信徒評議会」を設立するに当たって「全世界で教会をあげて正義と平和の促進に取り組むように」呼びかけました。1971年の世界司教代表者会議では「福音宣教することと社会正義を促進することは切り離せない」ということを力説します。同年、使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』の中でパウロ六世は「中央主権的でも、独断的でもない」彼の姿勢をみせ、各地域教会に向かって次のように言います。「千差万別の状態を目前にして、世界各地に適応できる解決策を提示することは、私にとって困難なことで、私はそうするつもりはありませんし、それは私の任務でもありません。それぞれの地域の実情を綿密に調査し、それを福音の言葉と照らし合わせて解明し、社会問題についての教会の教説から考察の原則と判断の基準と行動の指標を引き出すのは、キリスト教共同体の任務です。聖書の助けによって、自分たちが所属する司教と交流を保ち、他のキリスト教徒、およびすべての善意のひとびとと協力して、必要な緊急を要する社会・政治改革を行うために、活動方針と手段を決定しなければなりません」と。

つづいて、影の点としていくつかの例をあげましょう。

パウロ六世は四つの問題の議論が分裂を引き起こすことを恐れ、公会議の議題から外すように指示しました。その四つの問題とは「聖職者の独身制度」「産児制限」「教皇庁官僚の改革」と「地域司教協議会の自治と権限」でした。今でもその四つの点に関して未解決のまま残っている問題があります。さらに、産児制限の問題を長く検討し、教皇へ答申を提出した委員会の意見を取り入れずに、少数の保守的な倫理神学者からの案と妥協して、パウロ六世は1968年に回章『フマネ・ヴィテ』を著しました。この回勅は教会の信憑性に大きな傷をもたらし、多くの信徒を教会から離れさせる結果を生みだしましたが、今でもその問題は解決されたわけではありません。

パウロ六世の遺言

教会の改革を促進すると同時に教会内部の分裂を避け、一致を保つことにパウロ六世は苦労しました。最初の回章(『エクレジアム・スアム』(Ecclesiam suam)1964年)のテーマは「対話」でした。1975年の使徒的書簡『福音宣教』(Evangelii nuntiandi)の基調も「現代と福音の出会い」で、「現代の諸問題・諸文化・諸宗教との対話」を促しました。この二つの名文書には似た背景があります。1964年に新教皇が公会議を続けず、教会の改革への動きに歯止めをかけるように保守派のほうから圧力がかかっていました。1974年の世界司教代表者会議においても公会議後の行き過ぎへの懸念が表されました。しかし、パウロ六世は慎重に進むべきだと注意しながらも公会議の線で改革をすすめ、福音の原点に立ち返る教会の刷新を促し、社会の福音化に全教会が努めるように励ましました。

「絶えず回心する教会」というのは彼の徹頭徹尾のモットーでした。

「けれども」の使い方次第で変わるニュアンス

「そうですけれども……」と言われるとき、「けれども」の後に出てくる言葉のほうが強調されます。「けれども」という接続詞の前の文章と、その後の文章の順序を変えれば主張が変わるのです。「無理はしてほしくないけれども、勝てるように頑張ってください」と言うのと、「頑張ってもらいたいけれども、無理はしないでください」と言うのとでは、ニュアンスは違います。

ところで、「けれども」を巡って次のようなこぼれ話があります。1975年には公会議の方針にしたがって進むことへの苦情は、教皇の耳にタコができるほど毎日のようにとどいていました。教皇は、イエズス会の総長アルペ師を呼び、「私としては公会議の線で前進してほしいけれども、行き過ぎがないように慎重に行動をしなさい」と語りました。アルペ総長と一緒に謁見に参加していた顧問の神父は悲しそうな顔になり「教皇から前進しないように釘を刺された」と思いましたが、アルペ神父は次のように解釈しました。「行き過ぎがないように注意してほしい、けれども公会議の線で前進しなさい」と。

このエピソードから38年たちましたが、アルペ師のこの福音的な楽観主義から学び、公会議50周年を祝っている現代の教会の中に、その精神を生かしたいものです。


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