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日本のカトリック教会の歴史

1.聖フランシスコ・ザビエルによる キリスト教の伝来

聖フランシスコ・ザビエル
聖フランシスコ・ザビエル

鹿児島上陸と宣教

1549年8月15日、聖母被昇天の祝日に、聖フランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸しました。ザビエルは、*1イエズス会の*2コスメ・デ・トーレス司祭と*3ジョアン・フェルナンデス修道士、*4ヤジロウ(アンジロウ)という日本人を伴っていました。

9月29日、ザビエルは、薩摩藩主(鹿児島)の島津貴久(しまづ たかひさ)に謁見し、宣教のための許可を求めました。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、その願いに快く許可を与えました。同時に、小さな家をも貸し与えたのです。

ザビエルは、日本語を上手に話すことができれば、多くの人たちがキリスト教徒になるだろうと考え、宣教師たちに日本語を学ぶようにすすめています。

ザビエルたちの真摯(しんし)さに深い感銘を受け、洗礼を受ける人たちがあらわれたのです。そのひとりに「ベルナルド」という洗礼名を受けた青年がいました。彼は、ザビエルの忠実な同伴者となり、平戸、山口、都へと旅をともにしました。1551年、ザビエルと共にインドへ赴き、さらにヨーロッパに渡り、 1553年イエズス会に入会し、日本人の最初のイエズス会司祭となりました。ベルナルドは、ポルトガルで勉強を続けていましたが、1557年、道なかばで病気のために亡くなっています。

ザビエルが鹿児島に滞在した1年の間に、約100人が洗礼を受け、信徒となりました。

通訳があったとはいえ、言葉もよくわからないザビエルの教えを聞き100人もの人が洗礼を受けた現実には、驚きをおぼえます。ザビエルの、人間性が、多くの人びとの心をうち、とらえたのでしょう。

また、ザビエルは、日本の諸宗教を知るために、寺々を訪問し、僧侶たちと話しました。
 そのなかのひとつ、曹洞宗 福昌寺(そうとうしゅう ふくしょうじ)をたびたび訪ね、東堂(とうどう・前住職)の忍室(にんじつ)と親しく話し合いました。

しかし、しだいに仏僧たちの反感が強くなり、キリスト教の禁令を、領主貴久に要求しました。貴久は、貿易のことを考え、躊躇(ちゅうちょ)していましたが、1550年7月、フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダを船長とするポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、キリスト教の禁止に踏み切りました。

活動できなくなったザビエルは、祈りのうちに、ヤジロウの助けで、教理の本を日本語に翻訳したりしていました。はじめから日本の都である京都を目指していたザビエルは、この機会にそれを実行することにし、1550年8月、仲間とともに平戸へ向かいました。

平戸での宣教

ザビエルの一行は平戸に赴き、領主 松浦隆信(まつうら たかのぶ)に謁見し、宣教の許可を得ました。彼らは、隆信の家臣の木村という武士の家に滞在しました。

そして、ザビエルとフェルナンデスは、鹿児島でつくった簡単な教理の本を使って宣教を開始します。

ザビエルたちの謙遜な姿に、木村家でも家族全員が、洗礼に導かれました。この木村の孫にあたる木村セバスティアンは、最初の邦人司祭として長崎で叙階され、1622年9月10日、長崎の西坂で火あぶりによって殉教しました。また、彼の従弟レオナルドもイエズス会に入り、1619年11月18日、長崎で殉教。甥の木村アントニオは、1619年11月26日、長崎で斬首され殉教しました。この3人は、日本205福者殉教者にあげられています。

ザビエルたちは、2カ月の間平戸に滞在し、100人くらいの人びとに洗礼を授け、彼らをトルレ神父スに任せて、都へ向かうため山口に旅立ちました。

山口訪問

当時、山口は、日本で一番栄えている町のひとつで、大友文化といわれる京風の文化が花開いていました。

ザビエルが訪れたときの領主は、最も有力な守護大名のひとりの大内義隆(おおうち よしたか)でした。彼は、学問や芸術の保護を奨励し、各方面のすぐれた学者や僧侶を招いていました。

ここでも、ザビエルはフェルナンデスを伴い、宣教を行いました。しかし、山口で受洗した人はわずかでした。

荒廃した都

1550年12月、ザビエルは、フェルナンデスとベルナルドを伴い都に向かいました。  山口から岩国までは徒歩で、岩国から堺までは船の旅でした。この旅は、冬の厳しい寒さと、食物の不足、それにあわせて一部の人たちの不親切のために、大変苦しいものでした。

堺では、後に教会の柱となる商人 日比屋(ひびや)を訪れ、歓迎されました。
 1551年1月、ザビエルたちは、小西の家に、都の宿を得ました。小西家の長男 立佐(隆佐)は、それから8年後の1560年、洗礼を受けました。彼は、キリシタン大名として名高い 小西行長(こにし ゆきなが)の父です。

そのころ京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃していました。後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍 足利義輝(あしかが よしてる)は、近江に逃れていました。

ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいました。しかし、天皇との謁見も、宣教も許されず、比叡山に入ることもできませんでした。

夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたたび山口での宣教を試みました。

山口での宣教活動

大内義隆にキリスト教を説くザビエル
大内義隆にキリスト教を説くザビエル

1551年4月、ザビエルはフェルナンデスやベルナルド、もう1人の日本人キリシタンを伴い、ふたたび山口に入りました。先回のような貧しい姿ではなく、盛装してインドの副王使節として領主に謁見しました。

その際、ザビエルは、天皇に献呈するはずだったインドの副王と、ゴア司教の信任状と贈り物を大内義隆に差し出しました。義隆が返礼にと用意した贈り物を辞退し、ただ福音の宣教を行うことの許しを願いました。義隆は喜んで許可を与え、無人の寺を住居として提供したのです。

そこで宣教をはじめたザビエルは、ひとりの目の不自由な琵琶法師に洗礼を授けました。彼は、ロレンソと呼ばれ、イエズス会の最初の日本人入会者となり、説教師として多くの人に福音を伝えました。山口では、ザビエルが滞在した4カ月の間に、約500人が洗礼を受けています。

また、このころザビエルは、神を表すために用いてきた真言宗の「大日」を、ラテン語の「デウス」に改めています。これは、多くの各宗派の仏僧たちが、ザビエルに論争をしかけてきたおかげで、より仏僧たちの考えを理解することができたためです。

豊後からインドに向けて

1551年9月に、府内(ふない)に、ポルトガル船が入港したことを聞き、ザビエルは、山口の教会を、平戸から呼びよせたトーレス神父に任せて、豊後(ぶんご)に向かいました。

豊後の領主*5大友義鎮(おおとも よししげ・後の「宗麟」そうりん)は、まだ20歳で、家督を継いだばかりでした。義鎮は、尊敬をもってザビエルを迎え、キリスト教の話しを聞き、領地内での宣教を許可しました。

そのころ山口では、大内義隆が、陶隆房(すえ たかふさ・後の「晴賢 はるかた」)の反乱によって殺さました。トーレス神父やフェルナンデスにも、危険が迫りましたが、幸い難を逃れました。内乱がおさまると、隆房は、豊後の義鎮に使者を送り、弟晴英(はるひで)を山口の領主として招くことを伝えました。晴英はこれを承諾し、翌年、山口に移り、大友義長(おおとも よしなが)と名乗りました。彼が、宣教師たちを保護したので、毛利元就(もうり もとなり)が山口を占領する1556年まで、宣教が続けられ、教会は栄えました。

インドのイエズス会に、多くの困難があることを知ったザビエルは、出港するガマの船で、一度インドに帰り、問題を解決することにしたのです。

1551年11月15日、ザビエルは豊後を出港した。ザビエルが日本にきて、2年2カ月が過ぎていました。そのとき、彼は翌年、新しい宣教師を連れてふたたび日本に来るつもりでしたが、これが、日本との永遠の別れとなったのです。
 ザビエルが日本を離れたとき、日本のキリスト教の信徒数は2000人ほどでした。


注釈:
*1 イエズス会
 イエズス会は、聖イグナチオ・デ・ロヨラによって創立されました。  ロヨラははじめ、司祭ではなく軍人の道を選んでいましたが、1521年パンプローナでの戦いでフランス軍と戦い、重傷を負います。療養中の苦しみの中、神に仕える決心をし、バルセロナの巡礼地モンセラートで、過去の生活を悔い改め、マンサレーナで修行をしました。その孤独の中で平安に満たされ、神に触れる体験をし、〈霊操〉を生み出しました。  モンマルトルの丘で、ザビエル等の6名の同志とともに「清貧」「貞潔」「聖地巡礼」の誓願を立て、修道会創立に向かって歩みだします。  「より大きな神の栄光のために」働くことを使命とするイエズス会は、特に学校を設けて、青少年の教育に力を注ぎました。他方、会員の中からは多くの学者を輩出し、カトリック教会の発展の重要な役割を果たしました。  イエズス会は、非キリスト教徒への宣教活動を活発に展開しました。当時、アジアでの活動の中で、その国の文化や習慣を尊重する宣教方針を取ったため、逆に他の修道会との間に論争を引き起こしています。
*2 コスメ・デ・トーレス司祭
 スペインのバレンシアで生まれ、ラテン語の教師を勤めたあと、メキシコで住み込み司祭になっています。
 その時フランシスコ会から入会を勧められていますが、それを断り、後に従軍司祭としてスペイン艦隊の遠征に従軍しました。
 1546 年、彼はモルッカ諸島(インドネシア)でザビエルに出会い、深い感銘を受けました。その後、ザビエルに再会したいがため、ジャバ、マラッカ経由でゴアに行き、ザビエルが宣教の旅から帰るのを待ちつづけます。2年後の1548年、ザビエルに再会すると、早速イエズス会に入会し、日本へ宣教の旅に随行します。
 日本では、ザビエルと共に、平戸や山口で宣教活動を行い、ザビエルの離日後は、その志を継いで、20年にわたり日本で宣教をし続けました。
*3 ジョアン・フェルナンデス修道士
 スペインで生まれ、リスボンの裕福な商人でしたが、1547年、イエズス会に入会し、ほどなくして、ザビエルの一行に加わっています。
 ザビエルは、謙虚な彼を司祭にと思いましたが、彼はその申し出を辞退します。日本では1日2回、ザビエルと2人で街頭に立ち、ザビエルの通訳や、教理書を読み上げたりして、福音宣教に力を注ぎました。
 彼は、日本で修道士としての生涯をささげました。
*4 ヤジロウ
 ヤジロウは、ザビエルの手紙では、「アンジロウ」と書かれています。
 イグナチオによってインドに派遣されたザビエルは、さらに東へと宣教の足を延ばしました。1547年、マラッカ(マレーシア)で、日本人のヤジロウと出会っています。
 ヤジロウは、薩摩の国の下級武士の出身でしたが、かつて自分が犯した大きな罪(一説には、人を殺して日本にいられなくなったといわれています)の赦しを求めて、ザビエルに会いに来ました。
 ザビエルは、ヤジロウを紹介され、彼の話すポルトガル語を聞き、理知的で、知識欲旺盛な様子を見て、ヤジロウに、「もし日本に行けば、日本の人びとは信者になるだろうか」と尋ねています。ヤジロウは、「すぐにはならないでしょうが、あなたの言われたことについて色々尋ね、話されたことが本当に行われているのか、あなたの生活ぶりを見て信者になるか考えるでしょう」と答えています。
 以前から ザビエルは、「新しく発見された日本という島には、理性的な国民が住む」と、商人達から聞いていました。そして、ヤジロウと出会ったことで、日本へ宣教に赴くことは、神のみ旨ではないか、と考えるようになります。
*5 大友義鎮(1530-1587年)
 ザビエルを招待した大友義鎮は、後の大友宗麟で、豊後(今の大分)を本拠地にして肥後、日向、筑後へ勢力を伸ばしていました。
 当時の義鎮は、家督を継いだばかりの若い領主でしたが、ザビエルに来訪を懇願する手紙を送っています。ちょうどそのころ、ポルトガル船が豊後の港に入港しており、船長のドアルテ・ダ・ガマ(インド航路の発見者、ヴァスコ・ダ・ガマの息子)からも手紙を受けています。ザビエルが豊後に着くと、船からは礼砲が鳴り響き、人びとを驚かせました。義鎮は、礼砲の習慣や、聖職に対する尊敬の念を知り、感嘆しています。彼もまた、威厳と尊敬をもってザビエルを迎え、ポルトガルとの友好を求め、領内での宣教活動の許可を与えました。
 義鎮は、ザビエルから強い影響を受けており、27年後にフランシスコの洗礼名で、信仰に入っています。また、大友、大村、有馬の3人は、天正少年使節をローマに派遣しており、正使の一人、伊東マンショと義鎮は親類にあたります。
 ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院で教理を学び、パウロ・デ・サンタ・フェとうい霊名で、洗礼を受けました。ザビエルと共に鹿児島に上陸し、ザビエルの通訳・案内役を務めました。ザビエルの上洛後は、鹿児島に残りましたが、その後はわかりません。
 2人の出会いは、東西の宗教の交流だけでなく、互いの思想や文化の門を開くきっかけとなりました。

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