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日本のカトリック教会の歴史
3.秀吉のキリシタン禁教令と26聖人殉教
信長の死
豊臣秀吉
天正少年遣欧使節がヨーロッパへ渡ってすぐ、日本では大きな政権の変化がありました。
それは、少年使節が旅立って3カ月後、本能寺の変によって織田信長は討たれ、替わって政権は豊臣秀吉に移りました。
九州では、大名同士の戦いが激しくなり、島津義久(しまづ よしひさ)が勢力を伸ばしてきました。
1587年、ヴァリニャーノの留守を預かっていた*1副管区長・コエリヨは、争乱の激化を見て大友宗麟を助けるため、秀吉に軍事援助を求めました。秀吉は援軍を送ることを約束し、九州へ軍を南下させました。
この戦いで、キリスト教へ回心した者も何人かありました。また、秀吉軍の中には、高山右近の姿もあり、彼の家臣たちののぼりには、十字架のしるしがつけられていました。5月、島津義久は秀吉軍に降伏しました。
しかし、コエリヨの政権に関わる態度は、秀吉に不信感や警戒心を抱かせるきっかけにもなりました。同時に、コエリヨの態度は、ヴァリニャーノの意図する宣教活動から逸脱したものでした。
キリシタン禁教令
1587年7月、突然秀吉は、右近に信仰を捨てるように命令しました。また、コエリヨには使者を送り、不満に思うことの説明を求めています。そして翌25 日、秀吉は、キリシタン禁教令を発布し、信仰を捨てることを拒否した右近は、明石の領土を取り上げられ、宣教師たちには追放命令が出されました。
秀吉がとったこの処置は、突然のものではなく以前から考えていたものではないかと思われます。秀吉は政治に関わる宗教の恐ろしさをよく知っており、また九州の戦いのなかで見たキリシタンの結束の強さを見て、それはキリシタンに対するの疑いから危機感へと発展していったと考えられます。
禁教令によって教会の閉鎖、また棄教する者も現れましたが、公然と禁教令に対して反対する者はおらず、秀吉もそれ以上のことはしませんでした。
宣教師たちは、肥前の有馬領に集められ、これからの打開策を検討していました。
このような背景の中、小豆島に流された高山右近は、自分に課せられた試練を受け止め信仰を守りとおし、また明智光秀の娘である*2たま子(細川ガラシャ夫人)は大坂でひそかに洗礼を受けています。二人の信仰の姿勢は、今でもクリスチャンの模範となっています。
天正遣欧少年使節の帰国
1590年7月、ヴァリニャーノと少年使節が、8年ぶりに日本へ帰ってきました。ヴァリニャーノは日本を発つ時巡察師の立場でしたが、今回はインド総督の使節としてやってきてました。秀吉は、これに対して寛大な態度をとり、ヴァリニャーノと謁見、そして秀吉と少年使節たちの交流も見られました。しかし、キリシタン禁教令の取り消しを得ることはできませんでした。
ところで、少年使節たちは帰国に際し印刷機を持ち帰っています。この印刷機によって、公教要理や使徒行録、聖人伝などの書物が約50種ほど発行されました。
少年使節の原マルチノは、翻訳をとおして活動しています。最後に発行されたものは、彼の和訳「こんてむつすむんぢ」(『キリストにならう』)です。しかし、残念ながら印刷機は20年ほどたって、信仰弾圧のためマカオに移されています。
サン・フェリペ号と26聖人殉教
秀吉は、ますます権力を身につけ、国外にも手を伸ばしはじめました。
朝鮮侵略、そしてフィリピンにも侵略をほのめかし、フィリピン総督はフランシスコ会の司祭(ペドロ・バプチスタ司祭)を使節として送り、マニラ貿易の友好条約を結んでいます。
フランシスコ会の司祭たちは、条約を結んだ安心感からか、彼らの清貧と慈愛の精神でもって公然と宣教しはじめました。
1596年10月、スペイン船のサン・フェリペ号が、フィリピンからメキシコに向かう途中嵐にあい浦戸に漂着します。この船は商船だったため、多くの積み荷を持っていましたが、秀吉の命令でその積み荷は没収されてしまいました。
サン・フェリペ号に乗っていたフランシスコ会士は、この件についてマニラ使節であったペドロ・バプチスタ司祭へ訴え、積み荷の返還を秀吉に求めました。そして、大坂奉行とスペイン人が積み荷のことで言い争っているとき、脅しの言葉、つまり「宣教活動の裏で他国征服の動きがある」といったほのめかしがあったのではないかと言われています。
このやりとりを聞いた秀吉は、「禁止されている教えを述べている」という理由だけで、クリスチャンたちを捕らえることにしました。
捕らえられたのは*3ペトロ司祭をはじめ、フランシスコ会の宣教師たち6名、イエズス会のパウロ三木と2人の同宿、教会近くの信者15名(うち子供3名)の計24名でした。
殉教者たちは、見せしめとしてまず京都で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされました。伏見や大坂でも同じように扱われ、1597年1月10日大坂から長崎まで殉教の旅がはじまりました。冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながらの徒歩の旅です。
トマス小崎
罪状の書かれた高札をかかげられていましたが、権力者秀吉のもとを離れ、祈り、神を賛美しながら行く道は信仰によって支えられていました。パウロ三木は道中、キリストの教えを伝え続け、まだ14歳だった*4トマス小崎は、母親へ感動深い別れの手紙をしたためています。また、殉教者最年少の*5ルドビコ茨木は棄教の勧めをはっきりした態度で断っています。
そして旅の途中、信仰を証しするかのように新たな2名の殉教者が加わりました。
長崎に着いた彼らは、最後に赦しの秘跡を求めましたが願いは聞き入れられず、1597年2月5日処刑がはじまりました。場所は長崎西坂の丘(現在の西坂公園)、26の十字架が立ち並び刑場には4000人の信者が見守っていました。
photo by:Isamu Nagao
十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し、「私たちはキリストの教えを信じ、説いたために殺されるのです。しかし、太閤様も役人様も神の教えに従って心から赦します」と宣言しました。
こうして殉教者たちは4人の役人によって、左右から順番に槍で胸を突き刺されていきました。
photo by:Isamu Nagao
日本26聖人殉教者は1627年に列福され、1862年 ピオ9世によって列聖されています。また殉教地は、1950年ピオ12世により公式巡礼地へ指定されました。
26聖人にささげられた教会は大浦天主堂(日本最古の木造ゴジック造り)、そして列聖100年を記念して彫られた26聖人の祈りの姿の記念碑は特に有名です。
ここは、私たちキリスト者にとって、彼らの信仰を心に刻む大切な場所となっています。
- *1 ガスパル・コエリヨ(1530ごろ-1590年)
- 1556年ゴアでイエズス会に入会。
1571年マカオへ渡り、まもなく来日。大村領で布教、領民を集団改宗に導く。
1574年、ヴァリニャーノによって準管区長に任命され、畿内を巡察し、秀吉より布教許可状を得る。 - *2 細川ガラシャ(1563-1600年)
- 本名はたま子。ガラシャは霊名だが、細川ガラシャの名で知られている。明智光秀の娘で細川忠興の妻。
若くして忠興と結婚。本能寺の変では、反逆者の娘として2年間幽閉されていたが、夫の元に戻ることを許される。大坂で密かに受洗しているが、夫と親しかった高山右近の影響があったのではと言われている。
関ヶ原の戦いでは人質を拒否し、家来に自らを討たせ没する。 - *3 ペトロ・バプチスタ(1546-1597年)
- スペイン人。サラマンカ大学で哲学と神学を修め、22歳でフランシスコ会に入会する。
メキシコについでフィリピンへ渡り、宣教師として優れた手腕を発揮する。
フィリピンではフランシスコ会の管区長を果たしたが、1593年フィリピン総督の使節として日本へ来日する。
26聖人殉教者の指導者格の人物。 - *4 トマス小崎(1583-1597年)
- 同じ26聖人の一人、弓師であるミゲル・小崎の息子、14歳。
教会の雰囲気の中で過ごし、大坂の修道院で生活していたが、京都で逮捕される。彼らの殉教後、父ミゲル・小崎の袖のなかに血に染まった手紙が入っていた。それは少年トマスが母親にしたためた最後の手紙だった。現在トマス直筆の手紙は失われているが、スペイン語に訳されたものはバチカン図書館に保存されている。 - *5 ルドビコ茨木(1585-1597年)
- 同じ26聖人であるパウロ・茨木の息子。殉教者最年少で12歳。
京都の修道院で過ごす。長崎への旅路では、いつも明るく殉教の苦しみにある人びとの励ましとなっていた。一人の武士はこの幼い少年をあわれに思い棄教を勧めたが、彼ははっきり断っている。