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日本のカトリック教会の歴史
7.潜伏キリシタンの生活
踏絵
1644年*1マンショ小西神父が殉教したのを最後に、日本には一人の神父もいなくなりました。それでもキリスト教への取り締まりは、ますます厳しくなり、絵踏み、宗門改制度*2五人組制度などが行われました。
そのため、潜伏キリシタンたちは、見かけは仏教徒を装いながら、自分たちだけで密かに信仰を守り伝えていきました。
秘密の組織
このように厳しい状態が来るのではないかと予想した宣教師たちは、信者たちに生き残る道を教えていました。
自由な時代に栄えた信心会(ミゼリコルディアの組、ロザリオの組など)をもとに、信者たちの秘密の組織が作られました。
それは、次の3役で構成されました
帳方(ちょうかた):毎年祝日を決める役、その秘伝を伝承している人。これを記したものを「お帳」または「日繰」といい、信仰生活のよりどころとしました。
水方(みずかた):洗礼を授ける役。集落ごとに1名、組織の最高権威者で世襲制をとっていました。授け役ともいいます。
聞役(ききやく):洗礼を授ける「水方」の助手役で、洗礼の時、水方が御用分(お授けの言葉)を間違わないように聞いている役目をすることから起こった名称といわれています。
また、長崎では「帳方」の家に集って、その週の「さし合い」の日(祝日)を聞いて帰り、各戸に触れ回る任務をしていたことに由来するともいわれ、「触役」ともいわれます。
こうして、組織の指導系統ができ上がり、250年間に及ぶ長い間、一人の神父もいないのに、信者たちは信仰を伝えていったのでした。
潜伏キリシタンの生活
秘密の組織は作ったものの、気づかれないように、隠れて信仰を守り伝えるのは大変でした。そのため信者たちは、いろいろな工夫をしました。
檀家(だんか)制度によって、普段は仏教徒を装っていた信者たちは、踏み絵を踏んだり、宗門改の時には口先だけで信仰を捨てたり、また葬式のために僧侶を呼んだりしなければなりませんでした。しかし、その後で自分たちだけで葬式をやり直し、神のゆるしを求めて、コンチリサン(痛悔)の祈りを唱えるのでした。
マリア観音
また、家には仏壇や神棚を置き、仏像や先祖の位牌(いはい)もまつりましたが、それらをイエス様、マリア様の代わりにして、祈ることもしていました。マリア観音(かんのん)などが、その一つです。
潜伏キリシタンの行事、儀式
潜伏キリシタンたちは、キリスト教の行事を自分たちの言葉で、密かに守り伝えて来ました。現在、注3かくれキリシタンに 残っている行事、儀式から一部をご紹介しましょう。
ご産待ち(ごさんまち) …… クリスマス・イブ
ご誕生(ごたんじょう) …… クリスマス
悲しみの入り …… 灰の水曜日
(この日から四旬節に入る)
お花(おはな) …… 枝の主日
上がり様(あがりさま) …… 復活祭
四十日目様 …… 昇天祭
十日目様(そおかめさま) …… 聖霊降臨祭
お授け(おさずけ) …… 洗礼
直会(なおらい) …… 聖体
御神酒(おみき) …… ぶどう酒
刺し身(さしみ) …… パン
- *1 マンショ小西神父(1600-1644)
- 長崎・対馬出身、小西行長の孫といわれる。イエズス会に入り、1628年ごろローマで司祭叙。1644年殉教。
- *2 五人組制度
- 百姓5戸が1組となり、互いに連帯責任をもって火災、犯罪、訴訟、キリシタンなどの取り締まりに当たった。組より申し出があれば、禁令に背いた者のみが処罰されたが、その組以外から申し出があったら、五人組の者は名主・庄屋(一村の長)とともに処罰された。
- *3 かくれキリシタン
- 明治時代になり、キリスト教禁令が解かれると、潜伏キリシタンたちの多くがカトリック教会に戻っていったのに対し、先祖から受け継いだ教えを守っていった人たち。