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日本のカトリック教会の歴史

11.近代日本とカトリック

長崎・中町教会
長崎・中町教会

1858(安政5)年、いわゆる安政条約が締結されると、カトリック(キリシタン)だけではなく、プロテスタントのいろいろな教派の宣教師たちが日本にやってきました。

たくさんの宣教師たちの活躍によって、キリスト教徒の数も増えていき、そのころから「キリシタン」という言葉も徐々に使われなくなっていきました。

キリシタンの黙認

江戸幕府は開国するにあたって、貿易とキリシタン禁制について、これらは別のことであるという考えで、キリシタン禁制を継続しました。そして、明治政府に政権がかわっても、その政策は引き継がれました。

1871(明治4)年、岩倉使節団が、欧米諸国を訪問した際に、各国からキリシタンの弾圧について厳しく抗議されました。岩倉使節は、キリシタン高札のある限り欧米各国との平等な条約を結ぶことは難しいと考え、これを日本政府に伝えました。その結果、1873(明治6)年に、高札が撤去されました。

撤去の理由は、キリシタン禁制は既に一般に知られているから、という名目ですが、本当の理由は、諸外国からの圧力をかわすことでした。しかし、一般にはキリスト教の解禁と理解され、キリスト教の宣教活動が公に行えるようになりました。

新たな宣教活動

黙認とはいっても、禁制から解放されたキリシタンたちは、喜んで活動を開始しました。

キリシタンの発見とその指導をしていたプティジャン神父の指導のもと、キリシタンの子孫のため、キリシタン時代に発行された書物を利用して、キリシタン用語で教理や祈りの本を発行しました。

長崎の、外海と出津の主任司祭であったド・ロ神父は社会福祉活動の先駆者となりました。貧しい生活に追いやられていたキリシタンの救済のため、平戸や田平などに土地を買い、そこに外海の信者を移住させて開墾させ、そこに教会を建てました。また印刷、建築、医学などにも力を入れました。

ド・ロ神父
ド・ロ神父

また、ド・ロ神父の指導のもと、女性達が社会福祉活動と幼児教育をはじめました。「女部屋」と呼ばれたこの小さな修道会は、長崎のあちこちの教会に仕えていろいろな活動を行っていましたが、のちに合併して最初の邦人女子修道会「聖婢姉妹会」(現在のお告げのマリア修道会)となります。

明治初期には、サンモール修道会、幼きイエズス修道女会、シャルトル聖パウロ修道女会など、多くの女子修道会が来日し、病院、孤児院、学校などを運営するようになりました。
また、1908年、イエズス会が、キリシタン禁制以来、日本に戻り、カトリック大学の設置を準備しはじめます。これが上智大学となりました。

憲法の上で認められた信仰の自由

1889(明治22)年、明治政府は大日本帝国憲法(明治憲法)を発布しました。その第28条には、条件つきながらも、信仰の自由が認められていました。これにより、豊臣秀吉、徳川家康以来の禁制が解かれることになり、キリスト教会は法的に認められることになりました。

カトリック教会は1891(明治24)年に日本の教会の組織(ヒエラルキア=聖職位階制度)を成立させました。東京は大司教区となり、長崎、大阪、北海道が司教区となりました。

信教の自由は認められたましたが、今度は、キリスト教に対して、神道・仏教家などからの反撃運動が行われたり、中国との戦争で勝利をおさめると、国粋主義者などによって排外ムードが高まったりして、教会の歩む道は平坦ではありませんでした。

軍国主義の時代へ

昭和の時代に入ると、天皇制支配とそれに伴なう国家神道の力が強くなっていきます。このため、明治憲法の、条件つき信仰の自由の条項が、利用されるようになっていきました。

1937(昭和12)年の支那事変の勃発から戦争がはじまっていく中で、文部省による宗教団体の取り締まりが、はじまりました。

このため、日本の教会を守るために、日本のすべての外国人司教は自主的に教区長の職を退き、日本人の司教をたてました。そして「日本天主公教団規則」を作り、国から認可を得ることができました。

また、同時期には、多くのプロテスタント教会も合同で「日本キリスト教団」を作りました。

こうして軍国主義が強まる厳しい状況のなかで、教会の活動は制限され、宣教活動ができないようになっていきました。

そして、ついに太平洋戦争がはじまります。


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