home > キリスト教入門 > シスター今道瑤子の聖書講座 > 第2回 新約聖書の言語 1
シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第2回 新約聖書の言語 1
新約聖書を構成する文書の原語はギリシア語ですが、ホメロスやプラトンのような古典ギリシア語ではなく、アレキサンドロス大王とその後継者たちによってその支配下のすべての地域の公用語とされた ヘレニズム時代の「コイネー(共通語)」と呼ばれるギリシア語です。
新約聖書のギリシア語のレベルは 一様ではなく、本によってギリシア語の洗練度はかなり違っています。ペトロの第一の手紙の文章は流麗ですし、ヘブライ人への手紙の著者や、第三福音書と使徒言行録をつづった著者も、洗練されたギリシア語をわきまえていると専門家は評価しています。
著者の多くが アラム語を母国語とする人々であり、著作物の内容もユダヤと深くかかわるものであるだけに、全体にアラム語やヘブライ語が属する北西セム語の影響があるのも、新約聖書の言語の特徴といえましょう。
新約聖書のできるまで
新約聖書は現代のわたしたちまで、どのように伝えられたのでしょう。
前回新約聖書は27書から成ると申しましたが、もちろん原文はとうに失せ、わたしたちには写本によって伝えられています。
イエスは書き物を残されませんでした。彼が公衆の前で福音をのべ伝え、言葉と業をもって神の最終的救いの到来を告げたのは、短い生涯の最後の2~3年のことでした。活動範囲も故郷ガリラヤ地方と、そこから幾度か巡礼されたエルサレムと、そこへの道程を主とする限られた地域です。
イエスはその活動のはじめに弟子たちを選びました。自分のかたわらにおいて、つぶさに福音を体験させ、後生にそのあかしをさせるためです。彼らはイエスの人柄に魅了され、思慕と畏敬(いけい)の念をもってつきしたがいました。しかし、師の生前には、イエスがどなたであるかを正しく把握するにはいたらなかったと思われます。
身近にイエスの慈しみや人並みすぐれた権威に触れ、この方こそ神が先祖に約束された解放者であり、かならずローマの支配からイスラエルを解放してくださる方だと誤解していたようです。
イエスの十字架上での死は、彼らにとっては大きなつまずきだったことを 福音書は語っています。ところが、復活された主との出会いという信仰体験が彼らを力づけ、復活された主に導かれてともに過ごした日々をかえりみながら、イエスがどのような意味で救い主なのかを思い知ることができました。
イエスが実は万人の救いのために 自分のいのちを御父である神にささげて死に、3日目に神に復活させられ、永遠に生きて父のみ前にとりなしておられるということを、深く確信したのです。以来、弟子たちは、主の霊に強められて、主の福音をユダヤから 近隣諸国へとのべ伝えはじめました。
はじめはもっぱら弟子たちの宣教によって語り継がれたイエスの出来事も、やがて少しずつ口承伝承として形をととのえ、さらに少しずつ文書化されていったようです。
4つの福音書を比べてみますと、互いに相似するところの多いマタイ、マルコ、ルカだけでなく、ヨハネ福音書でも受難物語においては共通記事が目立ちます。このことから、受難物語のエッセンスは比較的早い時期に文章化されたのではないかと 多くの学者は考えています。
またイエスの言葉集のようなものや、たとえ話、あるいは奇跡物語も、時を追って集められ、記録されたでしょう。歳月が流れ、あちこちに信徒の共同体が生まれていく一方、イエスの直弟子や 直接の証人たちの世代が世を去っていきました。やがて、自分たちが伝え聞いた口承伝承や上記の記録などを参照して、イエスの言葉と彼を中心にして起こったさまざまな出来事を、後に「福音書」と呼ばれるようになる 新しい文学様式できちんとした記録に残すよう霊の促しを受ける人が現れました。またパウロのように、自分の宣教によって キリストの道を歩みはじめてまもない兄弟たちに 信仰を励ます手紙を書く人も現れ、さらにそれらの散逸をおそれて保存をはかる人も出たのです。
こうして1世紀の後半から2世紀にかけて、たくさんの主にまつわる巻物がしたためられましたが、前回簡単に述べたとおり、教会は霊の導きのもとにそれらのなかから慎重に選んで前記の27書を信仰の規範の書としました。
聖書はどのようにして伝えられたのか
聖書の原文は失われたのに、どのようにして聖書はわたしたちにつたえられたのでしょうか。
中国に近い日本には紙や木版印刷が早く伝わったので、法隆寺には百万陀羅尼(ひゃくまんだらに)という世界最古の印刷物が 数多く保存されています。わずかの文字とはいえ、紀元770年に印刷されたものです。9世紀には木版印刷の仏典が出回っていますが 高価につくため、普通の文献の保存は わが国でも16世紀までは書写によりました。
新約聖書は グーテンベルグによって活版印刷が発明されるまでは、中近東やヨーロッパのさまざまの地で書写生たちが、一言一句を丹念に書き写すことによってのみ後世に伝えられました。このような先人たちの努力に、感謝を忘れないようにしたいと思います。
中国では すでに1世紀に製紙術が発明され、紙を生産していましたが、絹の場合同様、製紙技術がシルクロードを通ってヨーロッパに伝わるのは ずっと後のことです。
イエスの時代にすでにパピルスと獣皮紙(=羊皮紙、ペルガメーナ、パーチメントとも同義)は ともに存在しましたが、獣皮紙は高価だったので、パピルスの輸入がむずかしいところ以外では パピルスのほうが好まれました。
パピルスの素材はナイルに繁茂する同名のカヤツリグサの一種で、太さは子どもの腕ぐらい、長さは5~6メートルにも達しました。その茎を一定の長さに切り、さらにそれを繊維に沿って薄い短冊形に切ります。こうしてできた短冊を、まず縦に正方形に並べ、その上に短冊を横に重ねて並べ圧縮し乾燥させて作ります。繊維が横に走っているほうを表にして 横長に糊でつなぎ合わせ巻物に仕上げました。巻物は長くても12メートルが限度でした。
新約聖書の場合、長いものでも1巻は11メートルぐらいに収まっています。ルカ福音書と使徒言行録は、明らかに同一人物によって記された連続物ですが、2つの文書として扱われてきたのは、巻物の長さの限度によったものと思われます。
巻物に文章を書く場合、あらかじめ幅 約5ないし8センチくらいの欄を一定の間隔を置いて作り、そのなかに、句読点も字間もなしにべったり大文字で文章をつづりました。欄の長さは、巻物の幅によって異なっています。古代にも日用の書類には 速記体の小文字がありましたが、本に希少価値のあった当時は、著作物あるいは写本には大文字のみを用いました。書写の便のために 筆記体や小文字が使われるようになるのは、9世紀になってからです。
パピルスは素材が手軽に入手できるので 比較的に安く便利でしたが、もろく湿気に弱いため、エジプトのような乾燥地でなければ長期保存は困難でした。
パピルスの巻物はもろいだけでなく いつも両手に持って開いてゆかなければならず、朗読者が必要なところを開くにも不便でしたので、2世紀には綴じ本も出はじめます。それは、パピルスを2つに折って中綴じにしたものです。教会は、早くからこのほうが巻物より便利であると気づきました。
綴じ本の場合には、四福音書やパウロの手紙をそれぞれ1冊にまとめることもでき、紙の両面が使えるので経済的ですし、必要な箇所も開きやすいからです。とはいえ、パピルスの裏は 繊維が縦に入っているため、文字をきれいに書きにくいという難点がありました。
ユダヤ教のシナゴグ(宗教的集会をする会堂)では、今日にいたるまで祭儀用の聖書は巻物に限られていることを思えば、綴じ本形式を聖書の写本に採り入れはじめたのはたぶん異邦人からの改宗者が主体の教会だったのではないかと思われます。
4世紀になると、獣皮紙の保存のよさ、綴じ本にしても裏表ともスムーズに使え、先に書かれたものを削り落として再利用することもできる、などの利点が高く評価され、皮革紙が主流となりました。
写本
新約聖書の全文または部分を含む写本あるは断片は、合計5000に及びますが、それらは引用、翻訳物、写本の3種に分類されています。引用とはおもに教父(8世紀中葉までの聖徳の誉れが高く 正統信仰を公にしている教会の指導者)や、それと同時代の著者たちの著作に見られる聖書の引用を意味します。
翻訳物の写本がここに入れられているのは 奇異に感じられるかもしれませんが、この場合の翻訳はきわめて古い時代の翻訳で、それをとおして翻訳者の用いた写本の文章を推定するのに役立つからです。
しかし、いちばん貴重なのはなんといっても原語の写本ですから、それについての短いコメントといくつかの有名な写本を紹介しましょう。
写本はパピルス、大文字写本(4世紀から8世紀末までのもの)、小文字写本(9世紀以降のもの)の3種類に分類され、それぞれ独自の記号を付されています。パピルスはそれぞれ大文字Pにアラビア数字が上添えされ、たとえばP52のように記されます。大文字写本はそれぞれギリシア語あるいはラテン語の、アルファベットの大文字あるいは0を先行させたアラビア数字で たとえばB 03 のように表記されます。ただひとつ、後ほど紹介するシナイ写本だけは近代になって発見された 非常に貴重な旧約と新約をほぼ完全に含む写本なので、S 01 という記号のほかに、ヘブライ語の最初の文字アレフで表記されることもあります。小文字写本には、アラビア数字の通し番号が付されています。
ライランズ・パピルスP52
2世紀のはじめにさかのぼるもので、ギリシア語で記されたパピルス断片で、新約聖書の写本としては最古のものです。わずかにヨハネ福音書18.31~32と37~38を含む 6.5×7センチの小片にもかかわらず、貴重な断片です。
1920 年エジプトで購入され、何百という写本断片の中に紛れてマンチェスターのジョン・ライランズ図書館に眠っていたのが、1934年C・H・ロバーツの目にとまり、研究の結果2世紀前半のものと認められました。この小片の発見は、ヨハネ福音書の成立を2世紀後半とする説を覆す証拠としても一役演じる結果となりました。小アジアの一都市でしたためられた書の写本が、2世紀前半すでにエジプトに存在したことが明らかになったからです。
大文字写本
シナイ写本 S 01
シナイ写本
ヘブライ語のアルファベットの冒頭の文字 アレフで表示されることもあります。この写本は、ヴァチカン写本と並んで新約聖書写本中もっとも貴重なものです。ギリシア語新約聖書の全体を含む唯一の大文字写本であり、現存する最古の完全な新約聖書写本で、その発見は劇的なものでした。
写本をあさり続けていたドイツの聖書学者ティッシェンドルフは、1844年のある日、現在もシナイの山麓に存続するサンタ・カタリナ修道院に宿をとり、たまたまストーブの焚き付けを入れるくずかごに捨てられていたこの写本の数葉に出会ったのです。
4 世紀にさかのぼるこのギリシア語大文字写本は、本来旧新両約聖書を含むものでしたが、旧約のほうは多くのページが欠損していたのに反し、新約聖書は無傷最高の状態で保存されていました。長年を費やしての忍耐深い交渉にもかかわらず、ティッシェンドルフはこれを買い受けることができませんでした。
サンタ・カタリナ修道院
サンタ・カタリナ修道院はギリシア正教に属しますが、ロシア皇帝はギリシア正教の保護者でした。そこでティッシェンドルフは修道院側に、ロシア建国1000 年祝賀のためこれをロシア皇帝に献上するよう説得し、成功したのです。皇帝は1862年に建国1000年の記念として、自費で立派な複製を印刷させました。こうして写本は、日の目を見ることができたのです。やがてロシア革命の折、その価値を知らない共産党政府は、資金獲得を目当てにこれを大英博物館に売り払いました。今もそこで大切に保管され展示されています。
ヴァチカン写本 B 03
シナイ写本と並んで、ギリシア語の大文字写本中もっとも価値のある4世紀にさかのぼる写本です。残念なことに、ヘブライ人への手紙9章14節以下が 欠損しています。学者のなかには「コンスタンチヌス大帝が331年ごろ 勅令によって50部の獣皮紙聖書を作らせた」と歴史家エウゼビオスが伝えているものの 1部ではないかと主張する者もいます。
ヴァチカン図書館の最古の目録(1475年)にも記されていますから、たぶんそれ以前から収蔵されていたと思われます。長く門外不出で研究者にも公開されずに眠っていましたが、1890年に完全な写真複製が出版されました。なお、新約聖書の部分はパウロ6世の命によって1965年に写真複製が作られ、ヴァチカン第2公会議の出席者とオブザーバーの面々に進呈されました。