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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第5回 マタイ2章1~12節 占星術の学者たちの訪問
前回に続いて占星術の学者たちの訪問(マタイ 2.1~12)を、読んでゆきたいと思います。
イエスの系図に続いて、ダビデ家に属する救い主で、聖霊によって神の子とされるイエスの誕生が天使によってどのようにヨセフに告げられたかを述べた後、マタイ福音書の著者は 星に誘われて東の方からイエスを拝みに来た星占術の学者たちの物語をはじめます。
新共同 マタイ 2.1~12 (数字は、聖書の節を表します。)
☆ 東方から星占術の学者イエスを訪ねてエルサレムに来る
2.1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2.2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
☆ ヘロデ王の反応
2.3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2.4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。2.5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2.6 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2.7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2.8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
☆ 学者たち星に導かれて幼子を礼拝し、ヘロデを避けて帰途に着く
2.9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2.10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2.11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2.12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
1~2節と9~12節は占星術の学者(マゴス)たちの行動について語り、それにはさまれた3~8節ではヘロデ王の反応が記されています。
新しい登場人物を見ておきましょう。
ヘロデ王:ヘロデ一世
ヘロデ家の他の人物との混同をさけるため普通ヘロデ大王と呼ばれています。
ローマの権威者たちにおもねることによって紀元前37年から同4年に病死するまでユダヤ王の座を守った老獪な人物です。
血統上はユダヤ人ではなく、イドマヤ人でしたし、ヘレ二ズムに心酔していましたのでユダヤ人からは王位の簒奪者として忌み嫌われていました。王位に執着し王座を守るためには妻子をさえ処刑するほどの残酷さで歴史に有名です。
非凡な才能にも恵まれ、パレスチナ各地に今も偉大な建築物の遺跡が残されています。イエス時代世界でも指折りの建造物だったエルサレムの神殿は彼が再建したといってもいいほどの大規模な修復拡大をほどこしたものです。暦史的資料からはここに記されている幼児殺戮の事実は知られていません。彼の性質からありえそうな話ではあっても、すでに何度か触れたとおりこの部分は物語ですから、事実か否かを問うこと自体が無駄と言えましょう。
占星術の学者(マゴス)たち:
マゴスとはペルシャ語マギに由来するギリシャ語で、本来はゾロアスター教(火を礼拝するので拝火教とも呼ばれる)の祭司階級に属し、天文学に通じ、星占い夢解きの専門家たちを意味しました。しかしギリシャではもっと広くバビロニアの賢者や祭司たちもマゴイと呼んでいたようです。
バビロニアや、ペルシャも含むその周辺地域は古くから天文学が盛んで、星の動向によっていろいろのことをうらなっていました。バビロンには長くユダヤ人が捕囚生活を余儀なくされていましたから、ユダヤ人の救い主待望の事実なども知られていたのです。欧米の伝統では人数も三人となり、ヨーロッパ人、中近東人、アフリカ人と伝えられ名前も付けられ、クリスマス物語には欠かせない人物となっていますが、マタイはただ東方からの複数のマゴスたちとだけ述べています。
幼子がいつ、どこで、どのように生まれたかを物語るルカとは対照的に、マタイは幼子の誕生を前にして人々がどのような態度を取ったかを語るほうに比重を置いています。前回見たヨセフの態度に引き続き、ここでは特別の星によってユダヤの王の誕生を知った東方の星占術の学者たちと ヘロデと律法学者たちの態度が対照的に語られています。
星占術の学者たちは星の観察からユダヤ人の王の誕生を察知し、彼を拝もう(礼拝しよう)と贈り物を携えてはるばるユダヤの都エルサレムにたどり着きます。この「ユダヤ人の王」という表現はメシア王、すなわち神によっていつかイスラエルに与えられると約束されていた救い主である王を意味します。
これを知って驚いたヘロデも幼子に強い関心を抱きますが、それは彼の誕生のニュースを自分の王座を奪いかねないライバルの誕生ととらえ、なんとかして早く亡き者とする必要を覚えたからです。そこで律法学者たちを呼んでメシアが生まれるはずの場所を問いただし、ユダの地ベツレヘムだと知りました。
星占術の学者たちは 星という自然現象をとおして救い主の誕生を知りますが、それが具体的にどこで起きたのかを知るためには ユダヤの都に行って律法学者たちから聖書に基づく神の啓示を示してもらうことが必要でした。こう語ることによってマタイは たくみに神がイスラエルに聖書(神の言葉)を委ねられたのはすべての人が全人類を救うという神の救いの計画を 知るためであることを想起させてくれます。神がイスラエルの民を選ばれたのは、えこひいきではなく万民の救いのためでした。
律法学者たちは、約束された救い主(メシア王)が誕生するはずの地はベツレヘムだということを 聖書に基づいて知っていました。ヘロデにそれを報告しながら、自分たちはその幼子に何の関心も示しません。他方ヘロデはその知らせを聞くと、自分の王位が脅かされるのを恐れ、星占術の学者たちをあざむいてイエスを亡き者にしようと試みます。
ここに登場するイエスを受け入れるヨセフや 彼をたずね求めて礼拝する異邦人の天文学の学者たちと、かたくなにイエスを拒むヘロデや 神からの啓示についての知識を持ちながら救いに無関心な律法学者たちは 3章以下で語られるイエスの公生活や受難と十字架上での死、復活をとりまく人々を先取りしています。
世俗の支配者も 宗教上のリーダーもイエスに反対して互いに手を結びました。イエスの側に最期までついて彼を勝利に導いたのは 父である神だけでした。他方異邦人は たびたびイエスを感動させるような信仰をもって彼を受け入れたのでした(マタイ 8.5~13; 15.21~28; 21.33~43; 27.54 参照)。この物語は 3章以下に語られてゆくイエスを前にしての人々の反応を要約する物語です。救いの福音を前にどの様な態度をとるのかとわたしたちに内省をせまってきます。
マタイ福音書が世に出されたのは まだ生まれて半世紀ほどの若い教会がユダヤ教と袂を分かつことを余儀なくされ、異邦人に向かって広く門戸を開き始めた時代でした。ユダヤ人として地上に生を受けたイエス・キリストは、ユダヤの信仰共同体の一員として生きておられました。
したがって、キリストの最初の弟子となったユダヤ人たちは当然のこととしてエルサレムの神殿の祭儀に与かり、律法を守り敬虔なユダヤ人として生活していました(☆使徒言行録 3.1 ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った)。当初はユダヤ教徒もそれを認めていましたが、紀元67年にユダヤがローマの圧政に耐えかねて謀反した結果、紀元70年ローマに完敗し、エルサレムは廃墟と化し、ヘロデが壮麗に修復した神殿も土台から破壊されたのち状況は変わりました。キリストの道を歩み始めたユダヤ人たちは以下のような時勢の流れの中で次第にユダヤ教の中で場を失って行きました。
ベツレヘムの街
亡国の民となったイスラエル(ユダヤ教徒)は、何とかして自分たちのアイデンティティを守ろうとしました。ユダヤ教の祭儀にとって唯一の正当な聖所だったエルサレムの神殿を失い、祭儀の場がなくなってしまったため、祭司階級の貴族を主流とするサドカイ派は勢いを失い、律法学者たちからなるファリサイ派が指導権を握りました。エルサレムよりも少し地中海よりのヤムニアという町を根拠地とし、聖書とくに律法をよりどころとしてイスラエルの結束を図りました。
国家にしても宗教団体にしても存亡の危機に立つときにはとかく狭量になりがちです。いつかははっきりしませんが「18の祈り」と呼ばれるユダヤ教の日々の祈りに「キリストに従うものはのろわれよ」というような意味の一句が加えられました。こうなると ユダヤ人でキリストに従う人たちはだんだんユダヤ教から離れざるをえなくなります。
マタイ福音書は そのような過渡期の80年ごろにユダヤに近いシリアあたりのキリスト教徒に向けて書かれたものと思われます。つまりこのよう動きの影響をもろに受けていたので、マルコ福音書に較べると ユダヤ人はせっかく待望の救い主が現れたのにこれを拒み、かえって異邦人がイエスを受け入れたということが強調されています。マタイ 1~2章はこの点についても3章以下の本文を先取りしています。
この物語の背後にも 聖書の記事とまた聖書の記事にまつわって生まれたユダヤの伝承があります。一つは民数記の22~24章で物語られている話です。
モーセはイスラエルを率いて約束の地に向かっていました。ヨルダンの東モアブの地にせまり、向こうところ敵なしという勢いであるとのうわさです。モアブの王バルクは恐れ、何とかしてモーセの一団を負かそうと思い、東方のユーフラテスの流域から バラムという占い師を呼んでイスラエルを呪うように頼みました。ところがバラムは神に逆らうことはできないといって 呪うかわりにイスラエルを祝福してしまうのです。
紀元前2~3世紀のギリシャ語訳聖書によれば次のように記されています。「一人の男の子が彼(イスラエル)の種から生まれ、多くの国を支配する……わたしには彼が見える。しかし今ではない……一つの星がヤコブから進み出る。一つの王しゃくがイスラエルから立ち上がる(民数記 24.7&17)。」ユダヤの伝統では この箇所はダビデ王家の出現に関するものと受け止められて来ました。ダビデこそはバラムの預言した星であり、王座を与えられた人と言うわけで今でもイスラエルの国旗にはダビデの星が描かれています。
ダビデの死後時代が降るに従いこの章句は、ダビデの子孫のメシア王に関するものと理解されるようになります。ここでも学者たちの口に「東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を置くだけでなく三度もこの星に言及することにより、マタイはこの幼子こそ約束されたメシアということを強調しています。