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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第7回 マタイ2章3章1~12節 洗礼者ヨハネの宣教

前回で誕生物語が終わり、今日からいよいよイエスの公的活動の準備(3.1~ 4.17)の部に入ります。この部分は以下のように構成されています。

洗礼者ヨハネの宣教 3. 1~12
イエスの受洗 3.13~17
荒れ野での試み 4. 1~11
ガリラヤでの宣教開始 4.12~17

洗礼者ヨハネの宣教(3.1~12)

1 洗礼者ヨハネが登場してひろく回心を呼びかける(3.1~6)

1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「回心せよ(新共同訳 悔い改めよ)。天の国は近づいた」と言った。3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』(イザヤ 40.3 参照)」

4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

蛇足かもしれませんが念のために申し添えますと、この洗礼者ヨハネは使徒ヨハネや黙示録の著者とは別人です。四つの福音書だけでなく、ユダヤの文献にも登場する預言者的人物です。

洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野に現れ、人々に回心を呼びかけます。荒れ野とは旧約聖書の伝統では神以外により頼むもののない場であり、そこでイスラエルの民が試みを受けて神に背いた場であると同時に、神との新しい出会いを体験し親しく神の配慮と教育を受けた場でもあります。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に現れ、人々に回心を呼びかけますが、その動機は天の国がまさに到来しようとしているからです。

天の国とは何を意味するのでしょうか。天の国は、いわゆる天国(パラダイス)を意味するものではありません。マルコ福音書やルカ福音書で「神の国」とよばれているものです。マタイ福音書が想定している読者の多くはイスラエル人でした。彼らは「あなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない」という神の掟に従い、神に対する尊敬のために神の名をみだりに口にしない習慣がありました。たぶんそのためにマタイは「神の国」を「天の国」と呼び変えています。神の国とは日本の国という場合のような領土的意味の国ではなく、「神が王となって世界を支配されること」をあらわしています。

悔い改めるというと、むしろ内省のほうが強調されるように理解されがちです。しかし、ここでヨハネが呼びかけるのは、キリストの到来によって今まさに始まろうとしている神の支配に心を開き、自分を神の支配にゆだねることだと思われます。続く4章13節以下で繰り広げられてゆくイエスの生き方や 教えに見られる価値観は、神の支配にゆだねることから生まれ出たことです。福音書を読み進みながらキリストにならい、日常生活のなかで神の支配に自分を積極的に開いてゆくなら、たとえカタツムリのような歩みではあっても 次第に神の恵みによって自己中心的な視点から解放され、生き方そのものも刷新されてゆくでしょう。

3~4節では旧約聖書を借りて洗礼者ヨハネの使命が明らかにされています。「主の道を整え」以下の言葉は「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」という預言者イザヤの言葉をヨハネにあてはめて、今まさに活動を開始しようとしているイエスを 人々が迎え入れるように導くために、ヨハネは神から派遣された者であると紹介しています。

ヨハネの服装は、列王記下1章8節の預言者エリヤそっくりです。エリヤは列王記下(2.11)によれば、生きたまま天に引き上げられたとあるうえ、マラキ書に「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす(3.23)。」とあることもあって、その再来が待たれていました。洗礼者ヨハネの出現は、当時エリヤの再来と受け止められていたようです。そこで人々は彼のもとに集まってきて罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けていました。

2 回心にふさわしい実としての洗礼(3.7~10)

7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 回心(新共同訳 悔い改め)にふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。 言っておくが、神はこんな石からでも、 アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10 斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

ここに記されているヨハネの言葉は、他の福音書とは違って一般の群衆に向かってではなく、ファリサイ派やサドカイ派の人々に向けられています。この二つの派はともにユダヤ教内の派でした。わたしたちの時代だけでなくいつの時代にも、いろいろな法規を現実に適応させてゆくことが要求されますが、この二つの派はその適応の仕方の相違によって生まれました。

ファリサイ派は律法に新しい解釈を加えることにより、律法に即した生活をすることを選び、口伝を重んじました。祭司や貴族階級の人を中心にしたサドカイ派は、保守的で伝統にこだわる姿勢を選びました。この二つの派をあわせて「ファリサイ派やサドカイ派の人々」という呼び方をするのはマタイの特徴です。

8節の翻訳について 一言触れたいと思います。佐藤研氏は8節を「彼は、ファリサイ派とサドカイ派の者たちの多くが彼の(施す)洗礼にやってくるのを見て、彼らに言った」と訳しています。下線を施した部分は共同訳よりも原文のニュアンスをよりよく表しているように思われます。

彼らのなかにも洗礼を受けた者がいたでしょうが、続くヨハネの叱責の言葉を見ると、むしろ好奇心や猜疑心、あるいはアブラハムの子孫であるという自負心から高ぶった態度で洗礼者ヨハネが何をするかを見に集まった者も多かったのでしょう。アブラハムはイスラエルの始祖で、神から選びを受けたとき「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る(創世記 2.3)」という約束を受けました。その末裔であることを鼻にかける人々に向かって、ヨハネは「神はこんな石からでも、アブラハムの子孫を造り出すことがおできになる」と言い放ちます。

この部分の中心的なメッセージは「回心にふさわしい実を結べ」です。この場合の回心にふさわしい実とは自分自身の努力によるよい行いというよりも、洗礼を受けて神の支配を積極的に受け入れることです。

10節は、神の招きにもかかわらず神の支配を拒む者を待っているのは、取り返しのつかない裁きであることを宣告しています。著者はたぶん当時のユダヤ教社会とキリストの道を行く者たちとの間の軋轢を意識して書いていると思われます。

3 霊と火による洗礼(3.11~12)

神の無償の愛と憐れみによって、イスラエルの背きのせいで完成に至らなかった神と民との愛のきずなが回復されることが歌われています。

11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来るかたは、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。そのかたは、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12 そして、手に箕を持って脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

ヨハネは自分が、キリストの履物のひもを解く値打ちもない者、言い換えれば奴隷として仕える値打ちさえない者であることを宣言し、自分の授けている洗礼とキリスト(メシア)の授ける洗礼との違いを明らかにしています。

ヨハネの授ける洗礼は単なる水によるもので、回心のため、すなわちキリストの洗礼に備えるためのもの、言い換えれば、神の支配を受け入れるという姿勢を整える洗礼であると述べたのち、後からくるかたキリストの洗礼は、単なる水の洗礼ではなく火と霊による洗礼であること告げます。

霊は、メシア時代のたまものとして約束されていました。主の救いの時を告げるイザヤ書には、こう書き記されています。「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える(44.3)。」火も主の日(救いの日)の特徴として旧約聖書に親しいものですが、マラキ書には次のように記されています。「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない(3.19)。」

メシアの洗礼には二重の効果があります。ヨハネはそれを当時の穀物の収穫時にはいつも見慣れた風景を用いて雄弁に語っています。農夫は刈り入れ後、それを干して棒で打ちたたき、箕に入れて風の中に立ち、振るってもみ殻を吹き散らし実を収穫しました。このイメージには裁きのもつ二つの結果がよく示されています。

ついでながら、わたしたちもキリストの洗礼を受けているという事実を鼻にかけるなら、洗礼者ヨハネの前で「われわれの父はアブラハムだ」とうそぶいていた人々と同じことになってしまうのを肝に銘じたいと思います。

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