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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第8回 マタイ3章13~17節 イエスの受洗


イエスの洗礼

イエスの受洗と続く荒れ野での試みは、イエスのその後の活動の序曲をなしています。

マタイ 3.13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

14  ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。

15  しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

16 a  イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
16 b  そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

17  そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

このテキストをマルコの記事と比べてみると、同じことを語っているようでも、マタイはマルコ福音書には見られないイエスと洗礼者ヨハネの間に交わされる会話を加えています。ほかにも細かい違いはありますが、最後にマルコが直接イエスに向けられた言葉として「あなたはわたしの愛する子」と記している部分を、「これはわたしの愛する子」と変えることによって、イエスよりもヨハネに向けられた言葉としています。以上に注目しながら読んでいきましょう。

この段落は、13~16a と16b~17 の二つの部分からなっています。 まず 13~16節a は、メシア(救い主)であるイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける箇所ですが、洗礼そのものよりもイエスとヨハネの間に交わされる対話が中心になっています。マタイが福音書を書いたころには、洗礼者ヨハネを信奉する団体も存続していました。そこで、イエスに洗礼を授けたヨハネのほうがイエスよりも優れているのではないかという疑問を持つ人々もいたようです。そのような事情も踏まえてマタイは、14~15節を書き入れているのかもしれません。

前回見たとおり 洗礼者ヨハネはすでに群衆に向かって、自分よりもはるかに優れたかたが彼らのなかにおられ、自分は水で洗礼を施すにすぎないが、そのかたは水と霊とによって洗礼を授けると述べて、メシア(救い主)の到来を予告していました。


ヨルダン川

「正しいこと」と訳されている原語は「ディカイオシネー」で、新共同訳以外の翻訳聖書ではたびたび「義」と訳されています。誕生物語で読んだ「ヨセフは正しい人だったので」の「正しい」もこの名詞から派生した形容詞です。この「義」とか「正しさ」と訳されている原語は、聖書理解の鍵となるたいせつな用語です。聖書で、ある人、あるいは行為が、義である、あるいは正しいというとき、いったい何を意味するのでしょうか。それに答えるには旧約聖書にさかのぼって説明するのが道なのですが、一言で言えば「神とあるべき関係を保っている」ということです。言い換えれば「ある人が神の意志を何にもましてたいせつにしている」ことあるいは「あることが神の意に則している」ことを意味します。

洗礼者ヨハネの前に立つイエスは、メシアの到来にそなえ悔い改めて洗礼を受けよ、というヨハネの呼びかけに応じて集まる群衆と連帯して、神の招きに応じようとそこに立っておられます。イエスは、単なる自己の思いつきによってではなく、ヨハネを派遣された神は人々が彼の手から回心の洗礼を受けることを望んでおられると悟り、民と連帯して洗礼を受けられるのです。やがて「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(9.13)」と言われる主の面影がすでにうかがえます。

「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われるイエスは、4章以下につづられているその全生涯をかけて、この言葉を生き抜かれるのです。罪ではなく罪びとたちとの深い連帯のうちに生きながら、今という具体的な状況のなかで明らかにされていく神の意志に徹底的に応えるというのが、洗礼から十字架上の死にいたるまでのイエスの生涯を貫いた生き方でした。洗礼の記事の中心は、このイエスの言葉にあります。

イエスとヨハネの間に交わされた言葉と両者の態度は、わたしたちに多くのことを問いかけてくれるでしょう。祈りのうちにじっくり味わいたい場面です。

半16b~17節では このように行動されるイエスが、いったいだれであり、神がどのように彼を支持しておられるのかが、ヨハネに明らかにされます。


イエスの洗礼

「天がイエスに向かって開いた」の背後にはイザヤ63章19節が感じられます。そこには 紀元前6世紀の終わり、待望のバビロンからエルサレムへの帰還は実現したものの、国土は荒れ果てたままであり、神殿の再建もままならぬ状態にあり、メシアを待ち望むイスラエルの上げた叫び、「どうか、天を裂いて降ってください」が記されています。天が開くとは終末の到来を示唆し、今イエスに向かって天が開いたことにより、いよいよ天の国が近づいたことが明らかにされます。

「神の霊が鳩のように降る」のは、イエスがメシアであることのあかしです。マルコが「あなたは」と書いているのに、あえて「これはわたしの愛する子」と書き換えることにより、著者はこの言葉をイエスにではなく、洗礼者ヨハネに向けられた言葉としています。イエスをメシアと認めて、彼の言葉を受け入れた洗礼者ヨハネに与えられた神からの答えだといえましょう。

「これはわたしの愛する子」は、イエスが何者かを示す父である神からのあかしです。

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