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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第9回 マタイ4章1~11節 荒れ野での誘惑


誘惑の山

4.1  さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

2  そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

3  すると、試みる(新共同訳 誘惑する)者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4  イエスはお答えになった。  「『人はパンだけで生きるものではない。  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(申命記 8.3)』 と書いてある。」

5  次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

6  言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。  『神があなたのために天使たちに命じると、  あなたの足が石に打ち当たることのないように、  天使たちは手であなたを支える』  と書いてある。」

7  イエスは、  「『あなたの神である主を試してはならない(申命記 6.16)』とも書いてある」  と言われた。

8  更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

9  「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

10  すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ(申命記 6.13参照)』 と書いてある。」

11  そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

原始教会の伝承はごく早い時期に、荒れ野での誘惑の物語を洗礼のさいの「神の子宣言」に結びつけたようです。前回見た洗礼の場面の終わりに、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた….17 そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた(3.16~17)」とありました。天から聞こえたこの言葉は、イエスが「神の子である」ことについての神の側からの宣言でした。今回の誘惑の場面では、悪霊の側からイエスを神の子と告白しています。じっさい新共同訳が4章3節および6節で「神の子なら」と訳している前置詞「エイ」は、この場合「あなたは神の子なのだからと訳すこともできるのです。


ペトロの家の近くの木

マタイ福音書4章12節以降は、「イエスは神の子である」という告白をめぐって組み立てられているということができます。4章3節と6節の悪魔の告白に対峙するかのように、16章16節にペトロの「あなたはメシア、神の子です」との信仰告白がありますが、興味深いことにいずれの場合にもその直後にイエスは「退け、サタン」とか「退け、わたしの後ろへ」と、サタンにもペトロにも厳しい叱責の言葉を浴びせておられます。イエスは神の子であるという信仰告白こそ、福音書全体をとおし、十字架と復活を頂点とするさまざまな出来事を貫いているテーマだといえましょう。

マタイはここで歴史的事実を語ろうとしているのではありません。これは前回見た洗礼の場面のいわば神学的な解説とでもいうようなものであり、イエスはユダヤ人一般が期待しているようなメシアではないことを明らかにしています。洗礼を受けられたイエスのことを、「これはわたしの愛する子」と宣言された神の「霊」に導かれ、彼は荒れ野に行かれます。試みをとおして、神の子イエスの正しさが明らかにされているばかりではなく、著者はイエスを新しいイスラエルの典型とも、申命記18章15節に将来与えられると約束されている「モーセに似た預言者」とも理解しているのです。かつて荒れ野で神に背いたイスラエル(民数記 14~15章)とは対照的に、御父に対するゆるぎない信頼を生きる新しいイスラエル(イエス)は、自分を神の道からそれさせようとする悪魔の誘惑に対抗されます。

解説

* 1~2節 イエスが空腹を覚えられた、と記されているとおり、イエスはわたしたちと同じ一人の人間として試練を耐えられます。これはまさにヘブライ人への手紙の著者がいうとおり「わたしたちの弱さに同情できないかたではなく….あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた(4.15)」ことをあかししています。

今回のテキストでは聖書からの引用がひときわ目立っていますが、以下三つの誘惑に際してのイエスの答えも、冒頭のテキストに注記してあるとおり、みな申命記からのものです。このことによっても誘惑物語はかつてイスラエルがエジプト脱出を遂げたときの荒れ野の旅を背景に語られていることを示しています。

* 荒れ野

洗礼者ヨハネが登場したた場面の荒れ野(3.1)には、「ユダヤの」という具体的な位置づけがありました。しかし今回は定冠詞つきの荒れ野で、特定の場所は示されていません。イエスが導き入れられた荒れ野は、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルが主に不従順だったあの荒れ野を想起させます。聖書の伝統では、荒れ野はきびしい試練の場であると同時に、神こそが真に頼りになる唯一のかたであることをイスラエルが体験した場でもありました。イエスは新しいイスラエルを代表して、身をもってだれに頼るべきかを示されます。

* 四十日間昼も夜も

出エジプト記 34章28節 や申命記9章18節によれば、モーセもシナイで、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏しました。また神の人エリヤが、まことの神を信じない女王イゼベルの手をのがれようとホレブ(=シナイ)に向かって歩んだ日数も、同じく40日40夜でした(列王記上 19.8)。

このように旧約聖書と深く関連づけながらイエスの出来事を旧約聖書の成就という形で述べるのはマタイの特徴です。

* 空腹を満たす誘惑(3~4節)

 誘惑する者:
 ペイラゾオーという動詞の現在分詞が用いられています。この動詞には試すという意味での「試みる」と、「誘惑する」という意味があります。著者は悪魔と明記することや、動詞の三人称単数を使って1節の悪魔であることを明記するのを避けて現在分詞でぼかすことにより、悪魔の誘惑も神の権威のもとにあることをほのめかしているのかもしれません。もしそうなら「試みる者」という訳語を選ぶほうがよいでしょう。旧約聖書にはアブラハムを試みる神(創世記 22.1)のことが語られています。

悪魔は飢えているイエスに向かい、神の子としての権威を乱用して自己の飢えを満たすようそそのかし、「神の子なら、パンを石に変えて見せよ」と迫ります。イエスは申命記章8章3節の神の言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えられました。時ならぬときに自分のためパンを石に変えようとするのは、神からゆだねられた権威の乱用であり、神よりもパンにより頼むことになります。イエスにとって、自分の与えられている力や食べ物により頼むのがメシアではなく、神の慈しみに絶対的な信頼をおいて神のみ心を行う者こそメシアなのです。

* 神の慈しみを試す誘惑(5~7節)


聖カタリナ修道院への途上

聖なる都とは「エルサレム」を指します。誘惑し損じたと知った悪魔は、イエスのよりどころとする聖書の言葉を引用してわなに掛けようとします。悪魔が口実として引用しているのは、詩編91の11~12節で、本来は神殿で祈る敬虔な人に約束された神の守りを歌ったものです。この誘惑のねらいは神の慈しみを試す誘惑です。十字架上で「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りて見せろ」との怒号を耐えることになるイエスは、申命記6章16節を引用して悪魔に応じられます。悪魔のねらいは第一の場合とは違い、神の意志からイエスを切り離すことにあります。

* 神と王国や世の光栄をすり替える誘惑(8~10節)

8節の山は特定の山を考えるより、黙示文学に登場する幻の山を考えることができましょう。悪魔はイエスに、この世の権威とその栄誉をまことの神に代わる偶像とするようにいざないます。しかしイエスは決然と「退け、サタン」と一喝し、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ(申命記 6.13)』と書いてある」と答え、人生の荒れ野を導くことのできる神にご自身をゆだねられます。

11 「そこで」 11節の「そこで」と1節の「さて」とはギリシア語ではともに同じ「トーテ その時に」です。初めのその時は、受洗ののち「これはわたしの愛する子」という祝福の言葉を受けたイエスが霊に導かれて荒れ野での試練へと向かう転換を示し、最後の「その時」は試練が一応終わり神との憩いへの転換を示し、この段落をくくっています。

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