home > キリスト教入門 > シスター今道瑤子の聖書講座 > 第12回 マタイ 5章13~16節 地の塩、世の光

シスター今道瑤子の聖書講座

バックナンバー

聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第12回 マタイ 5章13~16節 地の塩、世の光


イエスが説教した至福の山

5.13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
   14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
   15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
   16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

あなたがたは地の塩である

あなたがた

ギリシア語の動詞は人称によって語尾が変化するため、主語が代名詞の場合、ことさらに記さないのが普通です。これを日本語に翻訳する場合、日本語の動詞には格変化がないため、原文にはない彼とかあなたなど、代名詞を補う必要があります。13~14節のあなたがたの場合は、本来代名詞を記す必要がないにもかかわらず、著者自身があえて冒頭に代名詞を補っているので、そのことを皆さんに紹介するために「あなたがた」を肉太の活字で記しておきました。

この短いパラグラフにはほかに3回、「あなたがたの」という言葉がみられ、「あなたがた」が強調されています。このあなたがたは前回見た12節で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである(11)」とイエスが呼びかけた人々です。直接には、山でイエスのそばに集まってその言葉に耳を傾けていた弟子たちであり、間接には、彼らを遠巻きにして耳をそばだてていた群衆でした。5章 13節以下7章23節までは、彼らにあなたがたと呼びかけながら説教が続き、7章24-27節では、前回読んだ山上の説教冒頭の幸い(5.3~10)に対応する三人称の呼びかけに戻り、導入と釣り合った形で説教が閉じられています。

地の塩

地は現世を意味します。減塩が叫ばれる今日ですが、それでも適量の塩分は人命維持のために欠かせません。調味料としてはいうまでもなく、防腐剤としても塩は昔から珍重されてきました。そのせいか、多くの文化の中で宗教上の清めの役割も担ってきました。旧約聖書も神殿の供え物には塩を添えるように命じていました(レビ記2.13)。防腐の働きを持つことからか、神と民との間に交わされた神の側からの永遠の約束を表すために、とこしえに変わらない「塩の契約」という表現が用いられる例も見られます。ユダヤ人の伝統では、塩はやがて知恵の象徴ともなってゆきました。「塩気がなくなれば」と訳されている部分のギリシア語を文字どおりに翻訳するなら、「塩がバカになるなら」となります。

あなたがたは地の塩である

イエスはご自分に耳を傾けようと従ってきた弟子たちと、それを囲む群衆に向かって「あなたがたは地の塩となる」あるいは「地の塩となりなさい」ではなく、「あなたがたは地の塩である」と言われます。これは事実の宣言であって命令ではありません。地の塩であるというのは、イエスのもとに集まった「あなたがた」すなわち弟子たちの共同体がすでに招き入れられた現状なのです。

塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。「あなたがた」は、地上でこのような役割をすでに担っているのです。大切なのはその塩味が自分からのものではなく、イエスに従うことによって与えられていることを意識し、塩味を失わないように、イエスに従う道を歩み続けることです。イエスに従うことなしに、塩は塩味を保つことができません。当時の塩は現代のように精錬されたものではなく不純物を多く含んでいたために、簡単に味を失うこともあったのだそうです。

マルコ福音書9章49~50節には平行記事があり、そこでは「塩気のない(アナロス)」という形容詞が使われていますが、マタイはそれをバカになる(モーライノ-)という動詞に取り換えています。出来事をとおして神が発信しておられる時のしるしを見逃しがちな弟子たちの、ひいてはわたしたち読者の愚かさがほのめかされているのかもしれません。世界に必要な味わいをつける塩とされた弟子たちが、その塩味を失い愚かになるならば、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」だけです。踏みつけるとか外に投げ出すという動作は、聖書の中でたびたび神の裁きの比喩として用いられています(エレミア25.30、23.33、マタイ13.48参照)。ですから、ここでも裁きを暗示していると思われます。ただ、その場合の裁きは、塩気を失い愚かになった者自らが招いた裁きです。

あなたがたは世の光である


至福の山に咲いている花

この場合も、イエスに従う弟子たちは現に世の光であるということを意味します。イエスに聞き従う者たちが光である根拠は、まことの光である神の子イエスがその人々の中に住み、彼らはいわば神の神殿となっているからです。先に見た塩としての働きが、どちらかといえば外に向かう働きだとすると、世の光は、隠されずに輝かすことによって人々を引きつける求心力的な働きです。イエスは二つのたとえを用いて、光の特徴は隠れることができないことにあると教えます。

山の上にある町、燭台の上のともし火は隠れることができない。
 マラリアの多いパレスチナや南欧では、町は湿地を避けて丘や山の上に建てられていました。高い所にある家は隠れることができません。そのように、光は本来輝くものですから隠れることができません。またともし火をつけてこれを升の下に隠す人はいません。光で屋内が明るくなるように燭台の上に置かれます。

16 節前半をギリシア語から直訳すれば「このようにあなたがたの光が人々の前に輝きなさい」となります。これはもちろん自分自身をひけらかすことではありません。あなたがたの光とは、神から託された光、キリストです。この光を人々の前に明らかにするかしないかの責任も、ひとえにイエスの弟子にかかっています。

「人々が、あなたがたの立派な行い(善い業)を見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 立派な行いとは何を意味するのでしょうか。旧約聖書の精神にもとづくユダヤ教の伝統に従えば、人を救う神の誠実な慈しみに照らして他者を愛しぬくことを意味します。その典型は孤児や夫を失った女性をいたわり、寄留の外国人の面倒を見、生活苦にあえぐ人々に衣食を提供し、病人を介抱することなどです。立派な行いは自己満足のためでも、義務感でもなく、人々が神の愛に気づいて神をあがめるようにとの、礼拝の心をこめて行うように勧められています。イエスは、後ほど読むページでこれらの善い業を自分の名誉を求めてではなく、神への感謝と人々との連帯意識をもって真心こめて行うように勧めておられます。

▲ページのトップへ