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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第13回 マタイ5章17-20節 律法について 2


トーラー

18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

18~19節では、イエスの出来事(十字架上での死と死からの復活)によって旧約聖書に約束されていた救いが完全に成就するまで、律法は有効であり、したがってその拘束力を失うことはないことをのべ(18)、それに向けての努力を報いのテーマと関連づけています(19)。

はっきり言っておく

「はっきり言っておく」、これを直訳すれば「アーメン、じつにあなたたちに言う」という、たいへん荘厳な宣言です。アーメンは「そうです」あるいは「そうなりますように」などの意味を含み、旧約聖書では何かの宣言の終わりに唱和するのが普通です。新約聖書でイエスの口からこのアーメンが宣言される場合は、決まって冒頭に置かれ、以下に続く宣言に確証を与える意味合いをもっています。

天地が消えうせるまで

「天地が消えうせるまで」は、「決して・・・・起きない」ということを意味する大げさな表現です。

すべてのことが実現し

「すべてのこと」とは何を意味するのでしょうか。律法の定めるすべてのことが実現するという意味ではありません。

「実現し」と訳されている動詞は「生じる、起こる」という意味を持ち、マタイで多用されています。それらを調べてみますと、旧約聖書に記されている救いの約束全体がそれに向かっていた、イエスの死と復活の出来事が起きる、あるいは実現するという意味で用いられていることがわかります(1.22、21.4、 26.54~56参照)。

すべてのことが実現するまで

「すべてのことが実現するまで」と記すことによって、律法は、イエスの死と復活によって救いの約束が完全に成就するときまではその効力を保つが、すべてが成就する時点ではもはや律法の忠実な遵守ではなく、イエス・キリストを通して実現した神と民との新しい関係が救いの根源となるということを暗示しています。この新しい関係が20節では義という言葉で言い換えられています。

18節ではイエスによる救いが成就するまで律法は効力を持つと述べられていましたが、19節ではそれを報いのテーマと関連させています。

マタイ福音書が成立したのはユダヤ人が多い地域で、キリストを受け入れられないユダヤ教徒からの迫害があるだけでなく、他方には、「イエスは律法にまったく意味を認めなかった」という極端な人々もいたようです。マタイ福音書23章2節以下にイエスがファリサイ派の人々について語り、律法を守る必要を説かれた場面があります。イエスはこう述べておられます。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」

20節では「あなたがたの義」と律法学者やファリサイ派の義が対比されてイエスの見解が示されています。まずあなたがたとは、イエスの呼びかけに答えて彼に従う者たちです。あなたがたの義とは、なんでしょうか。イエスによって律法と預言者つまり旧約聖書が成就することでもたらされる神との新しい関係の源であり、イエスによってもたらされた神の国に入るための条件です。

それに対比されている律法学者やファリサイ派の人々の義とは、律法の精神ではなく字面に忠実なだけの掟の実行にとどまりながら、神と正しい関係にあると自負する姿勢です。神と人との新しい関係の源であるイエスに基づかない表面的な義です。人に見てもらおうとして断食する人の態度(6.16参照)に見られるような、あるいは外部を清めても内部を清めない見せかけの義です。

イエスが問うのは外面的な実行に先立つ、内面的な姿勢です。外面に現れる行為よりも先に、その行為の源となる心のありようが問われるのです。マタイ福音書ではルカのように「貧しい人びとは幸いである」とではなく、「心の貧しい人びとは幸いである」とあるのも、現実の貧しさを無視しているからではなく、行為よりも行為の源を問う視点に立ってのことと思われます。

続く21節以下では、ファリサイ派の人々に勝る義とは具体的にどういうものかが語られていきます。

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