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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第16回 マタイ6章19~34節 所有について

概要

マタイ 6章19~34節にはイエスの弟子として、富とどうかかわったらよいかが教えられています。キリストの弟子たちも、神とのかかわりと人々とのかかわりだけでなく、生きている以上、物ともかかわらずには暮らすことができません。したがって、所有とか経済と無関係ではいられないのです。それをどのように制御するかについての基本を、イエスは教えくださいます。

前半(19~24)では、3つの短い断章で基本的心構えを説き、後半(25~32節)では、日常生活で実践できる具体的態度が、詩的な情緒に満ちた文章で述べられ、最後にわたしたちが何にもまして求めるべきことは、「神の国と神の義」であることを想起させ、生活の知恵ともいうべきひとつの金言(34)で締めくくっています。

【道草】

ここで第11回のレッスンでお約束しておいた“義”について見ておくのが役立つかと思います。聖書は神の言葉と言われますが、神が直接に与えられたものではありません。一定のときに、一定の限られた環境の中で生活した特定の著者を通して伝えられたもので、著述された時代や背景も違う多くの書物からなっています。したがって、義と訳されているギリシア語のディカイオシュネーという言葉も、たとえばパウロの書簡とマタイ福音書では、言葉のニュアンスが違います。

マタイ福音書には義という言葉が7回用いられています〔3.15(新共同訳では正しいこと) 5.6、10、20、6.1(新共同訳では善行) 33、21.32〕。神が、慈しみとあわれみを注ぎながら人間に求められることを、マタイは義と呼びます。インマヌエル、すなわち「わたしたちとともにおられる神」とも「神はわたしたちとともにおられる」とも呼ばれる師キリストが、弟子を教え導き同伴してくださるとき、弟子たちがたどっていかなければならない道を、マタイは義と呼んでいます。

この義ということについては、いずれもう一度いっそうていねいにお話ししたいと思っていますが、義が上記のようなことを意味するとわかれば、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(6.33)」とか「義のために迫害される人々とは幸いである、天の国はその人たちのものである(5.10)」という言葉もご理解いただけると思います。

5章20節でキリストは弟子たちに向かって「ファリサイ派の人々にまさる義」をもとめておられましたが、ここでは、物とのかかわりにおいて義を極めるとはどういうことかを教えてくださいます。

テキストを読みながら、詳しく見ていきましょう。

マタイ6.19~34のテキスト

▽天に宝を積みなさい

19   「あなたがたは地上に宝(新共同訳では富)を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

20   宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

21   あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

この世でどんなに財宝を蓄えても、それらはいずれ紙魚(しみ)に食われたりさび付いたり、盗難にあったりする可能性があります。地上でどんなに富を蓄積しても永続性はありません。富を蓄えたいなら心を神に上げ、天、すなわち神のみもとに宝を積みなさい。地上で富を蓄積するのにあくせくして現世のことに執着していると、心も神に結ばれることなくこの世にしばられてしまいます。

▽寛大な心

22   「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、

23   濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

昔の人は目をどのような器官と理解していたのでしょうか。光を受け入れる窓としてよりは光を放ち、そうすることによって外界を捉える明かりの役目を果たすと考えていたようです。「目が澄んでいれば」という場合の目は、肉体の視覚の器官である“目”を超えて心とか魂と言い換えることができます。

前回もふれましたように、この福音書にはユダヤ文化の影響が色濃く残っています。そのことを念頭においてテキストを注意深く読んで見ましょう。「澄んでいれば」と訳されている単語は23節冒頭の、「濁っていれば」と訳されている単語の対句として用いられています。さらにこの濁っていればと訳されているギリシア語を直訳すれば、“よこしまなら"となります。ところで旧約聖書はギリシア語ではなくヘブライ語で書かれていますが、その旧約聖書には”よこしまな目 "という表現が何度か見られ、それは「ねたみ深い心」「けちな心」「寛大でない心」の意味で用いられています。

一例だけご紹介しましょう。旧約時代、ユダヤ人同士の間では、七年ごとに負債を免除しなければならないという掟がありました(申命記15.1参照)。そこで七年ごとの負債免除の年が近づくと、けちな心を起こし、物を貸し渋る人もあったでしょう。申命記15章9節には次の戒めが載っています。「“七年目の負債免除の年が近づいた”と、よこしまな目で(新共同訳よこしまな考え)貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう」とあります。この場合“よこしまな目”が狭い心、けちな心をさしているのはお分かりいただけると思います。

ですからマタイ6章23節の“濁っていれば”も、“あなたの目がよこしまなら”、さらには"あなたの心が狭いなら"の意味が込められていると解釈できます。すると、22節の“目が澄んでいれば”は、“濁った目(=よこしまな目=けちな心)”の対極として“心がおおらかならば”あるいは“心が寛大ならば” と言いかえることができましょう。物欲を慎むこともまた、父である神があわれみ深いようにあわれみ深いものとなるための道なのです。

∇神と富

24   「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

ここで富はいくぶん擬人化して用いられています。つまり、物欲にとらわれれば富を偶像視してしまう危険があるのを警告しています。富とか財宝はともすれば人の心を捉えて金縛りにし、人が富に仕えることをさえ要求するようになる危険があります。富はあくまで義の道を歩む手段であって蓄財を人生の目的としてはなりません。富は神の求められるあわれみと慈しみを生きる道具であってそれ以上のものではないのです。

▽日常の必需品についても心を煩わし過ぎることなく、万事においてまず神の国とその義を求めなさい

25   「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

26   空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

27   あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか

28   なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

29   しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

30   今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

31   だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

32   それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」

わたしたちと生活必需品との関係においても、ただ物資を必要とするわたしたち人間とわたしたちの必要を満たす物とがあるだけではありません。この分野でも、神は決定的な地位を占めておられます。生活の糧を得るための心配に頭を悩ますあまり、平常心を失わないようにすることが大切です。「何のために衣服をまとい、糧をとるのか。永遠に神とともに生きるためではないか。あなたたちの父である神は、これらのものがみな必要なことを知っておられる。すべての心配を超えて、このことを信じなさい」と、イエスは説いておられます。穏やかに賢明に人事を尽くして天命を待つ誠実な信仰が大切です。

イエスは自然界の美しいたとえを用いながらわたしたちの父である神がすべてを計らってくださったことを想起させてくださいます。空の鳥や野のゆりのようなはかない命にさえ、慈愛深い配慮をもたれる神は、小鳥や草花にはるかにまさる体と命を与えてくださったわたしたちに、これを保つに必要なものをくださらないはずはないと励まされます。
ちなみに、ソロモンをご存じない方があるかもしれませんね。イスラエル民族が誇るダビデ王の息子で、その知恵と富ゆえに名声を博した王(前10世紀)です。はじめてエルサレムに壮大な神殿を建てたことでも歴史に名を残しましたが、その晩年は信仰者としては芳しくありませんでした。

26~30節は、ここに記されたさまざまな生きるための労働をする必要がないと主張しているわけではありません。ただ生活の代(しろ)を得るための心配に心を奪われて神を忘れ、取り乱すことを慎み、神への信頼を保つようにとの激励です。未来は神のみ手にあり、わたしたちには知る由がありませんが、確かなのは神のあわれみと慈しみであり、大切なのは"今"です。その今をどう生きるかが重大事です

イエスは被造物の通常の道をご存じです。小鳥どころか人間さえ、時として飢え死にすることもあるという現実を否定しておられるわけではありません。しかしそのような極限状態においてもパニックに陥っても得るところはありません。このようなときこそ、命は神の御手のうちにあることを思い、地上がすべてではなく彼岸の命があること、そこではじめて十全に神の命に満たされることを想起すべきです。

33 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

最後にイエスは何がわたしたちの願いや心を支配すべきか、わたしたちは判断の基準をどこに置くべきか、わたしたちはいったい何に奉仕すべきかを教えてくださいます。神の国とその義こそ、わたしたちが最終的に追求する目標です。わたしたちは一切をここに集中するように呼びかけられています。

神の国とは、ご自身がなにものかを明かし、あわれみと恵みに富むものであることを示しながら、その命にあずかるようにわたしたちを招いてくださる神ご自身です。わたしたちはこのお方に全幅の信頼をおいて自分を開くように、招かれています。義については前述したとおりです。

最後にもう一度、みだりに明日を思い煩うことを戒め、未来は主の御手のうちにあることを想起させてくださいます。このお言葉を信じるものは、今日に全身全霊を打ち込むように努めるでしょう。

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