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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第19回 マタイ8章1-22節

概要

前回予告したとおりマタイは山上の説教のあとに集中的に9つの奇跡を述べています。その場合9つの奇跡を3つのグループにまとめ、おのおのが「3つの奇跡+アルファ」でなる3点セットの形をとって話を進めています。そのパターンを見ると、著者は決して、単に奇跡を行う者としてイエスを描いているわけではないことがよくわかります。山上の説教の終わりに「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われていたイエスの権威とは具体的に何か、が明らかにされていきます。

第一セット

§重い皮膚病の治癒 8.1~4 律法によってイスラエルの社会から疎外されていたイスラエル人を受け入れる。
§百人隊長の僕のいやし 8.5~13 異邦人であるためにイスラエルの社会から疎外されている人を受け入れる。
§多くの人のいやし 8.14~17 イエスこそイザヤ(53.4)の指し示す新しいイスラエルの解放者であることを示す。
§付録 弟子の覚悟 8.18~22 イエスの弟子の道はただ外面的に従うことにあるのではなく、まず神の義を求めるという生き方である

マタイ8.1~4のテキスト

▽重い皮膚病の治癒

1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。

2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

重い皮膚病は当時人々の恐れる伝染病の一つだったので、律法によって祭儀上汚れたたものと定められていました。患者は宗教行事や社会生活から疎外され、人の住まう地域から追放されていました。彼らに近づいたものは汚れを受け、身を清めなければ祭儀にもあずかれなくなるからです。けれどもイエスはそのような人が近づいて来たにもかかわらず平然と病者の願いを聞きいれていやし、再び共同体に復帰できるようにしてくださいました。

4節の「祭司に体を見せ……」というイエスのお言葉の意味を理解するためには旧約聖書にさかのぼる必要があります。律法によれば汚れを帯びて社会から追放されていた人が本当に汚れから解放されたかどうか(この場合重い皮膚病が治ったかどうか)を判断する権威は律法によって祭司にゆだねられていました。けがれから解放されたことを証明してもらい、感謝の供え物を神にささげるために祭司のもとに行く必要があったのです。

マタイはこのエピソードで何を言おうとしているのでしょうか。前回の結びのところに、イエスの聴衆が彼の言葉には、律法学者たちの言葉には見られない権威がみなぎっているのに驚いたということが記されていました。今、イエスの言葉は単なる言葉ではなく、創造のときの神の言葉のように出来事を引き起こす権威のあることが明らかになります。当時の難病だった重い皮膚病患者をひと言でいやすという出来事は、イエスの権威ある言葉が単に言葉としてとどまらず、出来事を引き起こすほどのものであることを示しています。

もし読者のわたしたちが、イエスの慈悲を信じ、自分の心の汚れや罪を神に申しわけないことをしたと心から痛悔し、イエスに向かって、「主よ、あなたはわたしをこの罪から清めることがおできになります。わたしをあわれんでください」と願うとき、主はわたしにも「よろしい。清くなれ」と言って、わたしたちの罪をいやしてくださるかたです。これはほんとうに慰め深いことです。

この事件で社会から締め出されていたのは、一人のユダヤ人です。差別されていた同胞が再び社会に受け入れられる場面です。第2、第3のエピソードにはこの点で進展があります。

マタイ8.5~13のテキスト

▽ 百人隊長のしもべのいやし

5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、

6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。

7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください 。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。

12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

百人隊長というのは、ローマの軍隊で歩兵50ないし100人の一隊の長でした。したがって異邦人です。「ただひと言おっしゃってください(8)」という百人隊長の願いの言葉からもイエスの言葉の権威がうかがえます。「わたしも権威の下にある者ですが……」により、権威を持つ隊長がイエスに近づいて来て懇願することを述べ、イエスの権威をいっそう強調しています。ですからイエスの権威というテーマがこの段落でも引き継がれていることがわかります。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません(8)」という百人隊長の言葉は、彼が異邦人であることを明らかにしています。当時のユダヤ社会では、敬虔なユダヤ人は自分の身を汚さないために異邦人の家に足を踏み入れないのが普通でした。百人隊長の言葉にはイエスに対する謙虚な信頼があふれています。

異邦人であるローマの百人隊長が謙虚にイエスに近づいて嘆願するという事実は、まず何を反映し、事はどのように展開されていくのでしょうか。ここにはイエスに対する謙虚な異邦人と不信のユダヤ人の対比がみられます。11-12節はわかりにくいですね。旧約聖書を背景に、世の終わり、すなわち終末について語っているのです。

アブラハムら3人はみなイスラエル民族の先祖で、旧約聖書では太祖と呼ばれている人たちです。彼らとともに宴席に着くということは、救われる、天の国に迎えられるということを象徴しています。しかもこの3人は皆イスラエルがモーセの仲介によって律法を授かる前の時代の人たちですから、異邦人の救いも暗示していると考えられます。

世の終わり、すなわち救いの完成の日のことを、旧約聖書はたびたび宴会というイメージで表現しています。一例としてイザヤの言葉(イザヤ書25.6)を紹介しましょう。彼は世の終わりに神が万民を対象として催してくださる豊かな宴会のことを歌っています。宴というイメージは、神との和解のシンボルとして聖書にたびたび用いられています。イエスはその和解の仲介者としての役目を持っておられることが、この宴というシンボルによって示されています。「泣きわめいて歯ぎしりする」という表現は、マタイ特有のものです。神の裁きで罪ありと認められた者の無念さと取り返しのつかなさを象徴するものです。

すでに読んだ4章15~16節に、イエスがカファルナウムに住まわれたのは、異邦人が救いの光を見るためだったということが述べられていましたが、この百人隊長のしもべはイエスによっていやされる異邦人の初穂であるといえましょう。

8節で百人隊長はまさにただイエスの「言葉」を求めています。イエスの言葉を受け入れないために宴から排斥される不信なユダヤ人と、それを受け入れて宴に招かれる異邦人との対比は、マタイ福音書に目立つ特徴でもあります。

異邦人のしもべをいやすということが中心テーマではなく、異邦人がどういう形でイエスとかかわるかということが問題なのです。百人隊長は言葉をメディアとしてイエスとかかわろうとします。イエスはその願いに答えて、遠くにいるしもべをひと言でいやされます。この言葉で出来事を引き起こす権威を持つイエスを強調しながら、事件は展開されています。

焦点はどこにおかれているのでしょうか。イエスの言葉の権威は普遍的広がりを持つということです。それではなぜ、イエスの言葉にはユダヤという境界を超える普遍性があるのでしょうか。群衆は山上の説教の後に、イエスのことを自分たちの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった、と驚いていました。この「権威ある者として」という点で、律法学者とイエスの対比がされています。その一つは律法学者の教える相手はユダヤ人の社会に限定されていますが、イエスはそのような境界を越えた普遍的な権威を持っておられるということです。

先の重い皮膚病の患者の治癒の場面との共通点は双方とも律法学者やファリサイ派の人々に代表される当時のユダヤ社会から差別されていた人々であったこと、しかしイエスは、彼らを受け入れられたということです。二つの出来事には違いもあります。重い皮膚病の患者のほうはユダヤ人でありながら同胞に差別された者、一方異邦人は、ほかでもなく異邦人であるという現実だけでユダヤ社会から排斥されている者です。

マタイ8.14~16のテキスト

▽多くの人のいやし

14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。

15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。

16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。

17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

マタイ福音書によれば、ここに登場する弟子はペトロだけです。彼の家を訪れたイエスはだれに頼まれたわけでもなく、病気で寝ているしゅうとめに気づかれ、進んで近づき、手をとっていやしてくださいました。

先に見た病人と百人隊長の場合はともにイスラエルの社会から排除された人々を対象としていました。第一と第二の奇跡の共通性はどちらの場合も、あわれみを願う者のほうがイエスに近寄って嘆願していることです。それが今しゅうとめと多くの人のいやしの場合、イエスは受け身ではなく積極的です。自ら進んでというイエスの主導性を強調しています。

話が複雑にならないため、先に申しませんでしたが、イエスが百人隊長の願いに答えて「わたしが行っていやしてあげよう(8.7)」とありました。あの場合のギリシア語テキストには、注目に値する特徴がありました。普通、ギリシア語では「わたしが行く」という場合代名詞を記入しません。動詞の変化で一人称単数であることがわかるからです。それなのにマタイは代名詞をわざわざ記入しています。「わたしが」を加えて、イエスが「よし、わたしの方から出かけよう」という姿勢をとられたことを表現していると思われます。進んでということを強調することにより、マタイは第2の奇跡と第3の奇跡を関連づけているといえましょう。

またこれら3つの奇跡を述べたあと、17節で「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った(イザヤ53.4)」を引用し、この言葉がイエスにおいて成就したと述べています。このイザヤの言葉はイザヤ書52章13節から53章12節におよぶ「苦しむしもべの歌」として知られている崇高な詩の一節です。

この詩はイスラエルの解放のために選ばれた神のしもべが耐える苦難を歌っています。著者はこの一節をここに引用することにより、イスラエルの解放者としてのイエスの姿をあらわしています。しかし注意しなければならないのは、ここでイスラエルの解放という場合、血族上のイスラエルではなく、異邦人をも含む新しい意味でのイスラエルのことだということです。

マタイは5~7章でイエスの言葉の権威を述べています。その具体的実現として今まで見てきた3つの奇跡を述べ、最後にイザヤ53章4節を引用することにより3つの奇跡の意味を要約しているのです。

この53章4節は「主のしもべの歌第四(イザヤ52.13~53.12)」と呼ばれる詩の一節です。この歌は極限まで忠実な神のしもべが、神にも同胞であるイスラエルの人々にも誠実であるために受ける苦難を歌っていますが、その一節(53.4)をここで引用することにより、イスラエルの解放者としてのイエスを示しています。しかしこの場合も異邦人をも含む意味での新しいイスラエルの解放です。もはやイスラエルの意味が普遍化されたという意味でマタイはこの引用をしています。

ですから今まで読んできたことの中心は奇跡そのものではなく、これらの奇跡をとおして示されるイエスの言葉の力とその言葉に基づいて価値判断をする新しいイスラエル(教会)をのべようと、著者は非常に考え深くつづっています。イエスの言葉を土台に置く新しいイスラエルとその中心としてのイエスを浮き彫りにするのが、これらのことを語る目的なのです。そして3つの奇跡のあとに、奇跡とはまったく違うことを述べています。

付録 8章18~22節のテキスト

▽弟子の覚悟

18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。

19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。

20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

3つの奇跡でイエスがどなたであるかを述べたあと、著者はイエスに従うということについて語っています。

2つのエピソードが語られています。律法学者はイエスを先生と呼び、弟子の一人は主よと呼んでいるのに注目しましょう。弟子はイエスに信仰を持ち始めています。律法学者とイエスの応答から、律法学者のほうは主に従うということの真意をまったく理解せず、単にイエスの場所の移動についてゆくことを「主に従うこと」と理解しています。ですからイエスは20節のような答え方をして彼の申し出を拒否しておられます。

他方、弟子の一人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言っています。まずと言うからには優先の問題が絡んでいることがわかります。親を葬るということは、ユダヤ教でも子の親に対する当然の義務でした。しかしこの問いに対するイエスの答えは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」です。

イエスは6章33節で弟子に向かって「まず神の国と神の義を求めなさい」と言っておられました。弟子とは神の国とその義とを何にも勝って優先する者でなければなりません。従うということに徹することが求められています。弟子には「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」というイエスの生活に見られる不確実性を生きることが要求されるのです。

イエスに身を投じた弟子は、まず神の国とその義を求めるということに徹底しなければいけないことが明らかにされています。従うということの意味をまったく理解できない律法学者の言葉と、まだすべてに超えて主を選ぶことを知らない弟子の言葉をとおして、イエスに従うということの意味の再確認が行われているわけです。

イエスに身を投じた弟子は、まず神の国とその義を求めるということに徹底しなければいけないことが明らかにされています。従うということの意味をまったく理解できない律法学者の言葉と、まだすべてに超えて主を選ぶことを知らない弟子の言葉をとおして、イエスに従うということの意味の再確認が行われているわけです。

先に見たイザヤ53章4節の引用で要約されている人間の根源的解放者としてのイエスを示したのちに、そのイエスは人間に対しても根源的要求を向けられると、著者は述べています。

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