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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第20回 マタイ8章23~9章17節
概要
前回マタイ8~9章には九つの奇跡が物語られていること、しかもそれらの奇跡は三つの奇跡と付録からなる三点セットの形をとっていることを学び、その第一セットを読みました。今回は第二セットを読み進めて行きたいと思います。
第二セットのテーマは、悪を支配するイエスです。
構成
§湖で嵐を静める | 8.23~27 | |
§権威をもって悪魔つきから悪霊を追い出すイエス | 8.28~34 | |
§中風の人を一言でいやし、 罪をゆるす権能をあかしするイエス |
9.1~8 | |
§付録 | 罪人マタイを弟子にする | 9. 9~13 |
断食についての問答 | 9.14~17 |
第一セットとのつながり 前回著者は三つの奇跡を物語ることによってイエスは権威ある言葉を語るだけではなく、その言葉には出来事を引き起こす力があることを示し、付録の部分ではイエスに従うということについて語っていました。22節には「わたしに従いなさい」というイエスの言葉があったことを思い出しましょう。今から注意深く読んでいくとはっきり見えてきますが、第二セットではこのテーマがさらに深められていきます。
マタイ8.23~27のテキスト
▽湖で嵐を静める
23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
ちょっとひとこと:新約聖書には福音書が四つあり、共観福音書とも呼ばれている最初の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には共通のたとえ話や奇跡物語、イエスの言葉がたくさん見られます。けれども同じ出来事あるいは言葉を語る場合にも、だれに、どのような状況のもとに、何を意図して、著者が語るかによって、強調点が微妙に変化してゆきます。今わたしたちはマタイをいくぶんていねいに読んでいます。
けれども他の福音書、たとえばマルコ福音書を読んでイエスが嵐を静められる段落に出会ったときに、この話は知っていると思わないでください。それぞれの福音書の著者は同じエピソードを異なる文脈の中で語っているので、著者が意図しているところをしっかりつかむ努力が必要です。今読もうとしている場面もその好例です。このコースでは初めて聖書を読んでおられる方々のことを思い、マタイに限って読み続けてまいります。
前段とのつながり:直前8章22節に「わたしに従いなさい」というイエスの命令がありました。この従うというテーマを受け継いで、第二セットは「イエスが舟に乗り込まれると弟子たちも従った」という形で始められています。弟子たちはもうキリストに従い始めているのですが、まだまだこの従うということに徹底しなければならいのです。
ここで激しい嵐と訳されている単語は、ギリシア語では「大きな地震」です。大方の翻訳では嵐と訳されていて、それが間違っているわけではありません。ただマタイ福音書の著者は湖の嵐を表現するにあたって、意図的にこの地震という単語を選んでいるように思われます。旧約聖書の預言者たちが神の決定的な救いの訪れを描写する場合に、それに先立って地震があることを述べているだけでなく、マタイだけが、イエスの十字架上でのご死去のときに地震が起きたことを記しています。マタイはたぶんこのような言葉を用いることによって、イエスをとおしてまったく新しい救いの出来事が生じるということの、伏線を敷いているものと思われます。このことはいずれキリストの受難の場面で詳しく見ることにいたします。
主は嵐の中で安らかに眠っておられます。主がともにおられるという一事に身をゆだねるほどの信頼には達していない弟子たちは、恐怖にとらわれ、主を揺り起こし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びます。救いを願う祈りです。イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と弟子たちをたしなめられます。マタイ福音書では「信仰の薄い者たち」という主の叱責の言葉が、この後も三度(6.30、14.31、16.8)弟子たちに向けられています。弟子たちの信仰はまだ浅いので、もっと主を信じることに徹底する必要があるのです。
「そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」 古代中近東の世界の人びとにとって、海はすべてを受けいれる母なるものというようなイメージとはほど遠い、おどろおどろしいもので、不気味な混沌、悪が支配する場というイメージがありました。古代のヘブライ語では海も湖も区別なく「ヤム」と呼ばれていました。神はその海をも支配する方として詩編や預言書のなかでたびたび賛美されています。イエスはまさにそのような方として湖上の嵐をただ一喝で鎮められたのです。
なお著者がこれをつづっていた当時(紀元70~80ごろ)の教会は、迫害の最中にあって危険を身近に感じていました。著者はきっと福音書の朗読に耳を傾ける信徒たちがこの小舟のうちに教会をかいま見、迫害の嵐の中で眠っておられるように見える主に「主よ、助けてください。おぼれそうです」と祈り、イエスの道をたどり続ける力を得るようにと、励ましているのではないかとも思われます。
最後にマタイは人々の反応を記しています。「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」
以前見たように、マタイ福音書では群衆は弟子になる可能性のある者たちです。あの山上の説教のさいに、イエスが群衆を見ながら弟子たちに語り始められた場面を思い出してください。あのときもイエスは遠巻きに弟子たちを囲む群衆を前にして語っておられました。初めて聖書を読んでおられる方々も「いったいこの方はどなたなのだろう」と、静かに心で問いかけてみてください。
マタイ8.28~34のテキスト
▽悪霊の上にも権威を持ち、悪魔つきから悪霊を追い出すイエス
28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
前段とのつながり:前段では嵐という外側から人を破滅に陥れようとする圧力からの解放でしたが、今度は人間の内面に巣くう悪霊が追放される場面です。さらに前段では群衆が「いったいこの方はだれ(27)」と問うていましたが、悪霊からの解放を語るこの奇跡では、悪霊がイエスを「神の子」と呼んでいます(29)。ここで語られているテーマは、悪霊の上にもイエスは権威をもっておられるということです。
向こう岸とはガリラヤ湖の東岸(地中海側ではなくヨルダン側)です。この地方は異邦人が住んでいるところでした。豚を飼っていることからもそれがわかります。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物でしたから、けっして豚を飼うことはありませんでした。
墓場は汚れの場、生命のない闇が支配する場を象徴しています。「神の子」という呼びかけから、悪霊はイエスが何者かを察していることがわかります。「その時ではないのに」とは何を意味するのでしょうか。ここで「時」と訳されているギリシア語は、新約聖書ではおもに救いが成就し神の支配の到来する時を意味する「カイロス」という単語です。神の支配の到来は同時に悪霊が象徴している悪の滅ぼされる時でもあります。
悪霊とイエスとの問答(31~32)は、初めて読む方には不可解でしょう。豚は汚れた動物と考えられていましたので、悪霊どもはこれを選んだわけです。さきに言ったように、ヤム(湖・海)は中近東一帯では混沌あるいはサタン(悪魔)の影響のもとにある領域と考えられていたので、群れが湖になだれ込むことによって悪霊は結局サタン(悪魔)に定められた場に落とされたことを意味します。この段落は人を悪霊の力から解放するイエスを示しています。
町じゅうの人たちの反応は何を意味しているのでしょうか。二人の悪魔つきが悪霊から解放されたことを喜ぶよりも、財産の喪失のほうを悲しむ心を明らかにしています。かれらは悪霊を追放したイエスをていよく追い出そうとします。イエスはまだ時が来ていないのを知って、異邦人の地をあとにされました。
マタイ9.1~8のテキスト
▽中風の人を一言でいやし、罪をゆるす権能をあかしするイエス
・導入
1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。・病人との出会い
2 すると(見よ)、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。・律法学者との論争
3 ところが(見よ)、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
・いやされた人と群衆の反応
7 その人は起き上がり、家に帰って行った。8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
[( )内の言葉は新共同訳聖書にはありません。]
前段とのつながり:クレッシェンドがあります。嵐の中から救いだし、悪霊につかれた人を悪から解放するイエスは、罪さえゆるすことのできる方であることをあかしされます。
テーマ 罪さえゆるす権能を持っておられるイエス
の自分の町とはガリラヤ湖の北岸に位置し、交通の要衝だったカファルナウムを意味します。イエスがガリラヤでの宣教の根拠地とされた町でした(4.18参照)。
イエスはご自分に信頼を寄せて中風の病人を担ぎこんできた人々の信仰を見て、病人に罪のゆるしの宣告をなさいます。旧約の預言者たちが罪のゆるしを宣告する場合は必ず「主は言われる」という前口上がありました。イエスは直接「あなたの罪はゆるされた」と言われました。まさに前代未聞のことです。ユダヤ人ならだれでも神以外に罪をゆるす権能を持つ者はいないことを知っていました。しかしイエスは御父からその権能を受けておられたのです。この自覚のあるイエスの発言は旧約聖書に詳しい律法の教師たちを驚かせました。自分たちの知識に自信過剰の彼らは、イエスが同胞の一人を不治の病から解放してくださったのを目前にしながらも、神の力ある業として賛美するどころか、神を冒涜する者としてイエスを非難する心でいらだっていました。
それを見て取ったイエスは、即座に宣言なさいます。「人の子が地上で罪をゆるす権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。」その人は直ちにそのとおりにして家路につきました。群衆は畏敬の念に駆られ、人間にこれほどの権威をゆだねられた神をほめたたえたのでした。
この段落では2、5、6の各節で罪のゆるしを語っています。悪の領域の上にも、悪霊の上にも権威ある言葉で実力を行使できるイエスは、罪そのものをゆるす力をゆだねられた方なのです。
付録 マタイ9.9~13のテキスト
▽罪びとを招き、彼らと食卓をともにし、ファリサイ派と論争するイエス
・マタイを弟子とする
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。・罪人と食事をともにする
10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。・ファリサイ派の人々との論争
11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
直前の段落とのつながり:とくに9~13節との関係を見るなら、先の奇跡では罪をゆるす権威のあるイエスが示されていましたが、そのイエスは公の罪びとを弟子とし、公然と食卓をともにしておられます。
当時ユダヤはローマの支配下にあり、ローマは通行税の徴収には現地のユダヤ人を雇い、一定額の税をローマ納めることを要求していました。けれども、税吏がその才量によって余分に徴収したもので私腹を肥やすことを許していたので、ユダヤ人は彼らを売国奴、公の罪びととして忌み嫌ったのです。彼らと接することは汚れを負うこととされ、食卓をともにすることも避けるのが常でした。イエスはこのような社会から見放された人々となんのこだわりもなく交わり、むしろ彼らこそ神の憐れみと救いの必要な者として、むしろ彼らを優先なさいました。
ファリサイ派の人々はこれを不満に思い、イエスに詰め寄りますが「医者を要するのは、丈夫な人ではなく病人である」とさらりと述べ、旧約聖書に記されている預言者ホセアの言葉を引用して、神は形ばかりの祭儀よりも慈愛の心を喜ばれることを想起せよ、と論破されました。そして荘厳に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と宣言してくださったのです。 なんと慰め深いお言葉でしょう。心からへりくだって罪のゆるしを願う者にとって、イエスがゆるしてくださらない罪はありません。