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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第22回 マタイ10章1~42節
概要
マタイ福音書には5つの大きな説教がありますが、10章は山上の説教に告ぐ二番目のもので「弟子たちの宣教に関する説教」と呼ぶことができます。イエスがじっさいこの長い説教をされたというより、むしろさまざまな機会にこの問題に関してイエスが弟子たちに説かれたことを著者がここにまとめたものだと思われます。
1~ 4節 イエス、十二人に悪霊追放の権能を授ける
5~ 15節 派遣に際しての説教
16~ 25節 迫害の予告
26~ 42節 恐れることなく信仰告白をすることへの励まし
マタイ10.1~4のテキスト
▽十二人に権能を授ける
1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
いきなり<十二人>が登場するので、初めてこの福音書を読んでおられる方はおやと思われるかもしれません。マタイはすでにイエスを信仰している人々に向けて書いているために、イエスが宣教の始めに十二人を召し出されたことを周知のこととして省略しています。それでもここまで読み続けて来られた方なら、以下のことを思い出していただけましょう。イエスは宣教を始めるにあたり、まず4人の漁師に「わたしについてきなさい」と言われ、彼らがただちにイエスに従ったことが語られていました。このようにイエスは、その宣教の最初から自分のあとを継いで福音を告げる人々を召し出し養成されたのです。
十二という数はイスラエルの十二部族を想起させます。したがって十二人は刷新されたイスラエル、教会を代表するものです。み言葉を語り、権威ある業を行われるイエスのあとにつき従いながら、イエスの言動の直接証人となった弟子たちです。イエスが十字架につけられ、そこで死なれたときには途方に暮れた彼らですが、やがてその主が復活され、もはや永遠に生きておられる主との出会いという信仰体験をしたのち、教会が生まれていく過程で核となった人たちでした。 10章1節でイエスが弟子たちに授ける「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能」はまさに8~9章でイエスが実行して来られたことですから、十二人とはイエスの働きを受け継いでいく者たちであることが分かります。またこの使命は十二人だけでなく、十二人が代表しているキリストの足跡をたどろうとする者の集い、のちの教会のメンバーに共通の使命です。
十二人の中にイスカリオテのユダの名があることに注目しましょう。彼は、のちにイエスを裏切る人です。イエスが十字架に磔になる契機を作った人物です。福音書の著者たちは十二人の名を挙げるたびに、執拗なほどその中にユダがいることを強調します。なぜでしょう。たぶん一度イエスに従うということでは足りない、弱い人間は自分の力だけでは主に従い続けることはできないから、うぬぼれることなく、主の恵みにすがりながら主の道をたどる必要があるということを、わたしたち読者に警告し、これを胆に銘じるよう促すためだと思います。
マタイ10.5~15 のテキスト
▽派遣に際しての説教
5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
サマリア人とは、現在も一握りほどの信徒がパレスチナのナブルス地方に残存するが、ユダヤ教からみると正当信仰からそれた人びと。紀元前3世紀ごろからユダヤ教徒とのあつれきが激しくなり、イエスの時代には犬猿の間柄になっていました。
マタイ福音書の終わりには復活されたキリストの荘厳な命令として全世界に福音を宣べ伝えることが命じられているにもかかわらず(28,19参照)、どうしてここでは異邦人の地での宣教やサマリア人たちの間での宣教が禁じられているのでしょうか。マタイ福音書のこの時点で、イエスの宣教はまだ初期段階にあります。イエスはまず約束の民であるイスラエルに真理を告げ知らせることをお望みなのです。神のご計画によれば、救いはまずイスラエルに、そして彼らをとおして万民に告げられるはずだからです。イスラエルが救い主キリストを拒む時、救いは万人に宣べ伝えられるでしょう。
7~8節には行く先々で「天(=神)の国を宣言すること」と「病人をいやし、死者を生き返らせ……」とが並べられています。イエスの宣教の場合がそうだったように、弟子たちの宣教の言葉は、神の国のしるしによって確証されなければならないことを明らかにしています。
旅行にさいして何一つ持ってゆくなという命令(9~10)は、宣教者たちが神のこと以外に煩わされることなく、神の摂理に信頼しなければならないことを教えています。杖は当時の旅人にとって獣や追いはぎから身を守る最小限の武器でした。「より便利に」ということを貪欲に追求する今の世界の傾向に流されがちなわたしにとっては、過剰な荷物で福音を妨げるなとの、耳の痛いお言葉です。
無償で自分の命を投げ出して神の救いを実現されるイエスは、弟子たちが福音宣教によって私腹を肥やすことを厳しく戒め、提供される宿と食事に甘んじることを説いておられます。当時の習慣によって旅人に宿を提供し食事を供するのは珍しくないことでしたが、それだけで福音を受け入れないなら、神の国に受け入れていただくにはふさわしくありませんが、それを判断するのは宣教者ではなく神であり、キリストに従う者は平和を願わなければなりません。しかし神の民として永く特別の慈しみを受けながら、神から遣わされた使者を拒む場合は、むしろきっぱりとそこを去って、他の町に行けと言われています。「足のほこりを払い落とす」という行為は、絶縁を意味します。この言葉は、イスラエルという神の言葉で養われた民の間での宣教に関する文脈で語られていることを想起して、理解する必要がありましょう。
ソドムとゴモラは、かつて死海の沿岸にあって、あまりの罪深さのために神に滅ぼされたと伝えられる町(創世記19.24~25参照)。
マタイ10.17~25 のテキスト
▽迫害の予告
16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
17 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院(注・地方のユダヤの法廷)に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。
25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
マタイ福音書が書かれたころには、すでにキリストを信じるユダヤ人と、キリストを信じないユダヤ人、とくにその支配階級との決定的な分裂は起きてしまい、迫害が始まっていました。ここでは迫害を受ける宣教者に対する慰め深いことばが述べられています。いざというときには聖霊自身が語ってくださるのだから、法廷でどう弁明しようかと思いわずらうな。聖霊のことが「あなた方の中で語ってくださる父の霊」と述べられているのは、慰め深いことです。けれども彼らを遣わされた方であるイエスがどのような処遇を受けられたかを思い起こすと、弟子も師にまさる待遇を期待することはできないと覚悟しなければなりません。
マタイ 10.26~31 のテキスト
▽恐れるべきもの
26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29 二羽の雀が一アサリオン(注・労働者の一日の労賃のおよそ18分の1)で売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
イエスは、弟子たちが何ものをも恐れず断固として福音を告げることを望まれますが、同時に、弟子たちに降りかかるどんな災難も、神の配慮の外で起きることはないと、ただのような値段で売られているスズメさえも神の配慮のうちにあることを引き合いに出して説きながら励まされます。
マタイ 10.32~33 のテキスト
▽イエスの仲間であると言い表す
32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
マタイ 10.34~39 のテキスト
▽平和ではなく剣を
34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
価値には序列があります。神やキリストよりも優先しなければならない価値はありません。イエスに従うことは、時として大切な価値あるものをそれと認めながらもさしおいて、神とキリストのほうを選ぶ決断を要求されますが、結果的にはそのことによって捨てた価値も救われるのです。これは当人の良心が神の恵みによって決断できることであり、第三者が判断できない問題です。
マタイ 10.40~42 のテキスト
▽受け入れる人の報い
40 「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
最後の言葉は、わたしたちが日常注意を払わない些細な対人関係がどれほど大切かを教えてくれます。弟子はイエスによって派遣された者です。具体的な生活でだれがイエスに派遣された小さな者かと思い悩むより、神の摂理によって出会う人びとを受け入れることのほうに努力を傾けたいものです。イエスはだれをとおしても何らかのメッセージを送ることができるお方です。