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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第23回 マタイ11章1~42節

前回は10章の弟子たちの宣教に関するイエスの教えを読みましたが、11章1節でマタイはその部分を「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」と締めくくっています。

概要

今日読み始める11章2節以降は12章と並んで、すでに前回現れていた「人々の前でイエスを知らないという者たち」すなわち、イエスを認めない者たちの敵意がつのってゆくさまが強調されています。

11章は大きく三つの部分からなっています。
   2~15節 洗礼者ヨハネの質問とイエスの反応
   16~24節 「今の時代の人々」によるイエスの拒否
   16~25節 迫害の予告
   25~30節 御父への賛美と慰め深い招き

マタイ11.2~15のテキスト

▽洗礼者ヨハネの質問とイエスの反応

ヨハネはイエスをだれかと問う 2~6

2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、

3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、(わたしたちは)ほかの方を待たなければなりませんか。」

4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていること (ギリシア語の順序は「聞いたり見たり」したこと)をヨハネに伝えなさい。

5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

「来るべき方」とはメシア、すなわち救い主を意味します。

冒頭のヨハネの問いは3章14節のヨハネの言葉を覚えておられる方にとっては奇異に響くかもしれません。たしかに彼は自分のもとに洗礼を受けに来られたイエスに向かってこう言っていました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」今、ヨハネはヘロデに捕らえられて牢に入れられており、弟子を派遣して問わせているのです。しかも上のテキストの第3節に(わたしたちは)と入れておきましたように、ヨハネの問いは一人称複数「わたしたち」となっていますから、彼個人の問いというより、弟子たちや人々を含めたものの問いとなっています。もちろん牢にあって、ヨハネ自身もはっきりとイエスの口から返事をいただきたいという気持ちを抱いたかもしれませんが。

イエスは直接自分が何者かを言明せず、むしろ何を行っているかを明らかにすることにより、間接に答えておられます。イエスの答えは預言者イザヤがメシアについて述べているところ(イザヤ26.19、29.18~19、61.1~3、35.5)の援用によって成りたっています。けれども、ここにイエスがあげておられるようなことならば、旧約の預言者たちもしていたことです。たとえばエリヤやエリシャは、死人をよみがえらせたことがありますし(列王上 17.17~24、列王下4.32~34参照)、エリシャは重い皮膚病を患っている人をいやしたこともあります。それに、紀元1世紀当時のイスラエル人がメシアから期待していたのは、病人のいやしよりは政治的独立や自由でした。

ここで注意を向けたいのはむしろ、「聞いたり見たりしたこと」と言われていることです。平行記事のルカでは順序が逆さで、見聞きしたとなっていますが、マタイは聞くことのほうを先におくことにより、イエスをまず「発言すればそれが出来事を引き起こすほど権威ある言葉を語るメシア」として認めることの必要を強調し、同時に、貧しい人に福音がもたらされたということも強調しています。いやしの奇跡と貧しい人に福音がもたらされるということを並べて述べることにより、あのイザヤが預言したことが成就するときが来た、神がイエスの公の活動によってその王国を開始されたということです。この言葉をとおしてイエスは「いまこそ預言者イザヤの預言したことが成就するときだ」と宣言しておられるのです。

▽イエスはヨハネをだれといわれるか 7~15

7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。

11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。

14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。

15 耳のある者は聞きなさい。

イエスがどのような方なのかということがヨハネの問いの関心事でしたが、7~15節では、イエスが群衆に向かってヨハネがどういう人物かについて問いかけておられます。

ヨルダンの渓谷にはヘロデの要塞マケルスがありました。「風にそよぐ葦」ということがここに出てくる理由は、ヘロデ・アンティパスが自分の鋳造させた硬貨に、そのヨルダン渓谷にある葦を刻ませていたからです。ヘロデ・アンティパスを皮肉ってあの弱い葦と呼んでいるわけです。人々がヨルダンまで集まってきたのは、ヘロデを見るためではなく、預言者、それどころか預言者以上の者であるヨハネに出会うためでした。10節は預言者マラキ3章1節に手を加えながらの引用ですが、まさに洗礼者ヨハネこそが救い主のために道を備えるようにと派遣された預言者である、と主は述べておられます。

マタイは洗礼者ヨハネを新約時代の預言者とみなしていますから、12~13節のような表現があるのです。14節はこの部分の頂点ですが、「彼は現れるはずのエリヤである」とは、何を意味するのでしょうか。預言者マラキは神の言葉として次のように預言しています。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす(3.23)。」したがってヨハネが「現れるはずのエリヤ」なら、人々にメシア(救い主)到来の日のための準備をさせる者であり、イエスこそは、約束されたメシアということになります。 こうして11章2~15節は、次のような形で続く段落への橋渡しをしています。ヨハネこそ神が末の日に派遣されるはずのエリヤである以上、ヨハネの説教を聴いたものは、当然メシアを迎える準備をしておくはずでした。それなのにヨハネのあかしもイエスのあかしも真剣に受け止めなかった「今の時代」やガリラヤの町々は、当然有罪判決を受けることになるでしよう。

マタイ11.16~24のテキスト

▽「今の時代の人々」によるイエスの拒否

今の時代とは 16~19

16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

17 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』

18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、

19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

「今の時代」とは、イエスが救いの成就の時代の幕を開けてくださる方であるということを信じようとしない、イエスと同時代の大多数の人をさしています。

悔い改めない町を叱る 20~24

20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。

21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。

22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。

23 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。

24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

コラジン、ベトサイダ、カファルナウムはともにガリラヤの町。とくにカファルナウムはペトロやゼベダイの子ヤコブとヨハネの出身地でもあり、イエスがガリラヤにおける宣教の根拠地とさえされた町です。ティルスとシドンはともに、パレスチナの北のフェニキア(現レバノン)に栄えた異邦人の港町です。地中海の覇権を握り、富を誇った町ですが、たびたびイスラエルにとって偶像崇拝へのいざないとなったため、預言者たちから不信心な町として厳しく断罪されました(イザヤ23章、エゼキエル26~28章参照)。

ソドムは創世記に出てくる不倫の町です。(創世19章24~28節参照)

ここにあげられている3つのガリラヤの町がイエスからとがめられているのは、イエスを受け入れなかったからというよりも、イエスの言葉を聴いて回心しなかったからでしょう。裏を返せば、回心なしの信仰は本物ではないということかもしれません。

マタイ11.25~30のテキスト

▽御父への賛美と慰め深い招き

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした

27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

28節は、もう働かなくてもよいということではありません。イエスのもとには憩いがありますが、それはもう働かなくてもよいからではなく、わたしたちさえ望めば、イエスがいっしょに「くびき」を担ってくださいます。このホームページを見てくださる方のなかには「くびき」を見たことのない方がいらっしゃるかもしれません。風俗画の絵巻物や、60年ぐらい前の農村の風景などによく見られたものですが、2頭の牛が肩に木製の「くびき」を懸けられ、一対になって耕作したり、荷物を運ぶ姿がありました。イエスがこのように、わたしとくびきをともにしようと誘ってくださるのです。こうしてわたしの傍らで働けばどのように重荷を担えばよいかが分かり、同じ荷も軽くなる、と招いてくださるのです。イエスのくびきの担い方の特長は柔和と謙遜だとイエスは言われます。

余談ですが、この箇所は、19世紀のフランスが生んだ偉大な聖女、宣教の保護者小さき花のテレジアの信頼と勇気の泉となったみ言葉でした。わたしたちもテレジアのように聖書の言葉を糧にして生きたいものです。

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