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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第24回 マタイ12章1~21節
11章はイエスの「わたしの軛は負いやすく(直訳すれば“ゆるく”)、わたしの荷は軽いからである」というお言葉で終わっていました。あの章で高まりを見せていたイエスに敵対する雰囲気は、12章にも引き継がれています。
概要
今日読み始める11章2節以降は12章と並んで、すでに前回現れていた「人々の前でイエスを知らないという者たち」すなわち、イエスを認めない者たちの敵意がつのってゆくさまが強調されています。
マタイ12.1~8のテキスト
マタイ12章1~14節に語られている2つのできごとは、同じ安息日に起こった一対のこととして語られています。したがって14節のイエスを殺そうという決意は、この2つの出来事全体の結論として機能しています。
▽イエスこそ律法の真の解釈者
空腹をしのごうと安息日に麦の穂を摘んで指でもみながら食べる弟子たちをファリサイ派の人々が見とがめる。
1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
8 人の子は安息日の主なのである。」
この場面で、イエスは安息日の規則に触れるようなことは何もしておられません。弟子たちのしていることはとうてい麦刈りの農作業とはいえないしぐさですが、ファリサイ派の人々の目には律法にそむく行為と映りました。律法にはこうあります。「 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である (出エジプト20.8~10) 」という律法の解釈が問題となっています。
念のために申し添えますが、この法の解釈については当時のユダヤ人社会でもさまざまな意見があったことは知っておくべきだと思います。たしかにたとえば 20世紀中葉に発見された死海写本(紀元70年以前の貴重な写本群で、ユダヤ戦争の際に死海のほとりのクムランの洞穴に隠されていたもの)のなかには、こういう厳格主義の文書があります。しかしファリサイ派のなかにさえ、マタイが伝えるような極端な厳格主義者たちとは違う解釈をするラビがいたのも事実ですし、また多様な意見を宗教的な文書のなかで並べて発表するのはユダヤ文化の優れた特徴であることも知っておく必要があります。
イエスは彼らと正面切って論争するよりもむしろ、彼らが重んじている聖書を用いて応戦なさいます。聖書がダビデについて語るエピソード(サムエル上 21.3~7)を引用したり、安息日にも一定の仕事をすることを祭司に要求している掟(民数8.9~10参照)があることを想起させたりすることにより、彼らの良識に訴え、法の文字にとどまらずその精神を重んじる必要を説いておられるのです。神は形ばかりのいけにえよりは、神の慈悲にならって自分のまわりの人々を大切にする心をお喜びになる(ホセア6.6参照)という神の教えを悟っていれば、罪のない人々を責めたりすることはなかっただろうと説き、重大な一言「人の子は安息日の主なのである」を加えられました。
マタイ福音書の著者は「人の子」という称号をイエスの唇にしかのせません。マタイ福音書に限って言うなら、「人の子」という称号は、イエスが「わたし」というかわりに用いられる神秘的な自称です。イエスはすでに山上の説教で、「律法と預言者(=旧約聖書)」についての唯一正当な解釈者であることを主張しておられましたが、ここでも「人の子は安息日の主である」という言葉をもって、重ねてそのことを主張しておられると思われます。
誤解をさけるために付け加えておきますが、イエスにとって安息日の規定が大切でなかったのではありません。イエスは安息日を聖とするという掟が目指していることを見失わないように、つまり神を信じ神に従う歩みにおいては慈愛を重んじ、時として法の文字よりも、その精神を大切にしなければならないことがあるのを教えておられるのです。
マタイ12.9~14のテキスト
▽手の萎えた人をいやす
安息日に兄弟を癒すことは許されるのか9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
まえの場合と同様、ここでもイエスは安息日に違反するような行為はなにもなさっていません。イエスが会堂にお入りになると片手の不自由な人がいました。安息日にもかかわらず、イエスはきっと奇跡を行われるにちがいないと思ったファリサイ派の人たちは、イエスを罠に陥れようとして10節の質問をします。それに対しイエスは11~12節の言葉を述べられたのち、直接、病人に向かってただ一言、「手を伸ばしなさい」と言われました。病人がお言葉どおりに試みると、手が自由になっていたのです。ファリサイ派の人々はぐうの音も出ず引き下がりましたが、彼らの目にはたとえ一言で病人をいやすことであっても、安息日には控えるべきことだったのです。律法を廃止するためではなく完成するために来られたこの方を理解できない彼らは、「イエスを殺そうと相談した」とあります。ここではじめてイエスに対する敵意がイエスの受難と死の誘因であることが示されています。
マタイ12.15~21節のテキスト
間奏曲
15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
18 「見よ、わたしの選んだ僕。
わたしの心に適った愛する者。
この僕にわたしの霊を授ける。
彼は異邦人に正義を知らせる。19 彼は争わず、叫ばず
その声を聞く者は大通りにはいない。20 正義を勝利に導くまで、
彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。21 異邦人は彼の名に望みをかける。(イザヤ42.1~4参照)」
イエスは、時ならぬ時に問題を起こさないよう身を引かれますが、大勢の群衆は彼の後を追いました。イエスは彼らのなかの病人をいやし、ご自分のことを吹聴しないようにと口止めされたとあります。この記述と17節の著者の解説とはいささかちぐはぐの感がしないでもありません。「預言者○○を通して言われていたことが実現するためであった」というのは、マタイが聖書を引用する場合の常套句ですが、16節のイエスの禁令の解説としての引用ならば19~20節で十分なのに、マタイは珍しく長い引用をしています。
なぜマタイは18節を引用しているのでしょうか。1行目の「僕」と訳されているギリシア語paisは「僕」も意味しますが、本来は「息子とか子供」を意味する言葉です。ヘブライ語のイザヤのテキストではもっとはっきり「奴隷」とか「僕」を表す単語が用いられていますが七十人訳と呼ばれる最古のギリシア語訳聖書では、僕とも息子とも読める単語が使われているのです。ですからマタイ福音書が書かれた当時の読者たちは、「見よ、わたしの選んだ息子、わたしの心にかなった愛する者」と読むこともできたわけです。
当時すでに、イザヤのこの箇所はユダヤ人の間でもメシア(来るべき救い主)に関連する記事と解釈されていた事実を思うとき、この言葉はわたしたちに次のことを考えさせてくれます。イエスの洗礼のときに、このイザヤの言葉に非常によく似た「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3.17)という声が天から聞こえました。それだけではありません。実は17章5節にも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が天から聞こえたと記されています。イエスが弟子たちにはじめてご自分を待っている受難について告げたあとで、愛弟子たちにご自分の栄光の姿を垣間見せてくださったご変容の瞬間の出来事でした。以上を考えるとき、マタイはここに間奏曲のようにイザヤの預言(マタイ12.18~21)を記すことにより、12章後半(22~50)のできごとは、メシア、救い主であり、神の子であるイエスが、ファリサイ派の人びととこの世の子らによって拒絶されたことが引き金となって起きる悲劇なのだという事実を、暗示しているのだと思われます。