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シスター今道瑤子の聖書講座
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第25回 マタイ12章22~50節
概要
12章の1~14節に続いて、22~37節、 38~45節にファリサイ派の人々との論争がつづられ、最後に46~50節ではイエスの本当の家族はだれなのかが語られ、それは「だれでもわたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である」と結ばれています。
マタイ12.22-30のテキスト
▽神の国とサタンの国
22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
マタイは9章で口の利けない人の治癒を語っていましたが、ここでは口が利けないだけでなく目も見えない人を登場させています。これには心の目が暗くなっているファリサイ派の人々への批判が、暗に込められているのかもしれません。
前にも見たことですが、マタイ福音書の場合、群衆はイエスの弟子となる可能性のある人たちであり、ファリサイ派の人々はイエスに敵対するものたちの典型として、たびたび群衆と対比的に描かれています。この場合も視力と言語の二重の障害をもつ人をいやされるイエスの奇跡的な業を前にした群衆は、これを神からの恵みとして受け止め、もしやイエスは「ダビデの子(待望の救い主)」ではないかと思うまでにいたりました。それとは対照的に、ファリサイ派の人々はイエスの恵みの業を悪霊の頭(ベルゼブル)の力に帰すほどの冒涜の言葉を吐き、イエスと討論が始まります。
イエスの二つの反論
1. どんな国や町でも、もし内部に分裂が起きれば共同体として機能しなくなるものだ。(まさにイラクの現状が示すとおりです。)(25-26節)。だからわたしが行った治癒の奇跡は悪霊によることではあり得ない。
2. あなたたちの仲間にも悪霊追放をするものがいるではないか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すというのなら、あなたたちの仲間はいったいだれの力で追い出しているのか(27)。じっさい、イエスの時代前後に活躍した高名なラビ(ユダヤ教の教師)たちのなかにも、悪霊につかれた人を解放したことを告げる文献が残っています。
28節はとても大切な言葉です。ある意味で、神とサタンとの戦いの対象ともいえる人間の悲劇の神秘に光明をあたえてくれる宣言です。救い主イエスは派遣を受けて、この戦いに加わられました。すなわち救い主はこの神とサタンの争いに参加されます。サタンを追い出すとは、とりもなおさず神の統治を到来させることです。イエスがサタンを追い出すということによって、すでに神の国が始まったのです。
29~30節もたとえで語られています。このように理解できるかもしれません。強い人は悪霊です。もしイエスが悪霊の家から獲物をぶんどり始めておられるなら、イエスがサタンに勝った証拠です。10章40節に「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と述べられているように、イエスはご自分を派遣された父である神とまったく一致しておられるので、人間はイエスか悪霊かのどちらかを選ぶように招かれており、この選択は神にくみするか離れるかという結果を生みます。
マタイ12.31-32のテキスト
▽聖霊に対する罪について
31 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。
32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
31~32節は聖霊に対する無礼な罪について扱っているのですが、文脈の中で理解しないとつまずきかねません。ここでは、神の霊によって行われた業を頑固に悪霊の仕業とする態度をとり続ける限り、その罪は決してゆるされないということが述べられているのです。神は愛であり、人の心の奥底まで見通される方ですから、たとえどんな罪を犯した者でも、もしへりくだって神に立ち帰るならゆるされない罪はありません。神は罪びとが回心して立ち帰ることができるために、イエスを世に送ってくださったのです。
マタイ12.33~37のテキスト
木とその実
33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
マタイ12.38~42のテキスト
律法学者とファリサイ派の人々は更なるしるしを欲しがる
38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
旧約聖書のヨナの物語はわずか3ページ半の短編です。神がいかにすべての人の救いを望まれるか、しかし神の選びによって信仰の恵みを受け、ほかの人々に神の慈しみを伝えるように召された人々は、そのことを理解するのにどれほど疎いかをわかりやすく楽しく語ってくれる本です。ぜひ読んでみてください。そうすれば、ここに述べられていることがよくわかります。そしてあなたも神がどれほどあなたを待っておられるかに感動なさるでしょう。なおマタイは、ヨナが三日三晩魚の腹の中にいた後に救われたことを、イエスが十字架上の死後三日目に復活されたことの予表とみています。
※南の国の女王 列王記上1章1~10参照
マタイ12.43-45のテキスト
汚れた霊が戻って来る
43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
「汚れた霊は、人から出て行くと」という表現は、当時ユダヤ人が日常語として使っていたアラム語独特の表現で追い出されるを意味します。悪魔は追い出されると出ては行きますが、滅んだわけではありません。家は、マタイの文脈ではイスラエルを意味しますので、直接にはイエスを受け入れなかった当時のファリサイ派の人々に向けられているでしょう。しかし、もし現代の教会が信徒とは名ばかりの状態なら、同じ警告がなされていることに目覚める必要がありましょう。
マタイ12.46~50のテキスト
イエスの母、兄弟
46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」