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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第26回 マタイ13章1~52節

概要

13章は大きく1~52と53~58に分けることができます。今日は52節までを読みましょう。

マタイ福音書にはイエスのお言葉の五つの集録がありますが、今回読むのは、山上の説教(5~7章)と12人の派遣を前にして行われた説教(10章)に次ぐ三番目のもので天の国についてのたとえ集と呼ばれています。じっさいこの章には、7回も「天の国」という単語が見られます。前にもお話したと思いますが、天の国とはいわゆる天国を意味するのではありません。ほかの福音書の著者たちが「神の国」と表現することをマタイは「天の国」と呼んでいるのです。彼はおもにユダヤ人を直接の対象として著述しているので、神の御名をみだりに口にしない彼らの習慣に従ってこの表現を好んで用いています。天の国とはいったい何を意味するのでしょうか。神の御意志が浸透している状態です。イエスは神の国を実現するためにこの世に来られたかたなのです。

この章の語り口は、わたしたちがすでに読んできた説教とは一味違います。たとえという単語がマタイ福音書に現れるのは13章3節がはじめてです。しかもこの章では12回も繰り返されています。そのほかにこの単語が見られるのは15章に5回だけですから、この用語は13章の理解の鍵となる言葉といえましょう。

「たとえ」と訳されている原語パラボレーには日本語のたとえという単語では表現しきれないニュアンスが含まれています。いわゆるたとえ、比喩、例などのほかに、格言、金言、教え、さらには謎などの意味も含む単語です。

ここにあげられているどのたとえも、聞き手になじみ深い卑近な生活からとられたたとえです。神の国は人間の言葉では表現しきれないほど深みのあるものですので、イエスは聴衆の理解しやすい卑近な例を用いて語られました。イエスが宣言される神の言葉に心を開く者にとっては、これらのたとえが天の国の奥義を垣間見る助けとなりますが、心を閉じる者たちにとっては、たとえではなく謎に終わってしまうのです。種蒔く人、毒麦、麦の粒、パン種、貴重な真珠、投網などのたとえは、神の国がどのように人々の中に浸透してゆくか、あるいは人びとの中で抵抗に遭うかを暗示しています。イエスの言葉を受け入れる人びとはその意味を汲み取ることができ、さらに悟らせていただいたことを無条件に駆け引きなしに実践する人は、それがかけがえのない宝であると気づくことができます。

この第三の説話で、イエスは七つのたとえ話をなさいます。たとえという単語そのものは13章以前には見られませんが、比喩を使うということなら、イエスはすでに山上の説教の中でも実行しておられます(5.14参照)。ここで言われているたとえは単なる比喩の意ではなく、むしろ聞き手の心の状態しだいで、たとえとも謎ともとれるものというニュアンスがあります。じっさい旧約聖書をギリシア語に翻訳したユダヤ人学者たちは、ヘブライ語で格言、ことわざ、謎などを意味するマーシャルという単語の訳語として、ここでたとえと訳されているパラボレーを用いています。実例を見るほうが分かりやすいので一例をあげておきましょう。紀元前6世紀に活躍したエゼキエルという預言者の書17章に次の記述が見られます。

まず神から預言者に「イスラエルの家に向かって謎をかけ、たとえ(マーシャル)を語りなさい」との命がくだり、「二羽の鷲とぶどうの木」の寓話が語られます。続いて預言者は神からの霊を受けて、その寓話をイスラエルの民の現実に当てはめて語り聞かせます。二羽の大鷲はそれぞれイスラエル民族の敵バビロニアの王とイスラエルが保護を求めようとしているエジプト王の隠喩であり、ぶどうの木はバビロニア統治下にあったイスラエル民族の国王の隠喩です。皆様も聖書をお持ちならぜひこの章をお読みになるようにお勧めします。

イエスがどうして謎のような語りかけをされたのかがわかるような気がします。最初からずばりと直截(ちょくせつ)に語られるよりも、謎や隠喩で語られるほうが人は耳を傾けやすいのです。よそ事と思って耳を傾けているうちにふと自分のことについて語られていることに気づき、回心する者もあれば、腹を立てて敵意を募らせる人もあります。寓話のように語られたことは心の隅に残っていて良心をさいなみ、回心を促すことがあるものです。

マタイ13.1~9のテキスト

▽種を蒔く人のたとえ
  

1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。

2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。

3 イエスはたとえ(パラボレー)を用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。

8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

9 耳のある者は聞きなさい。」

腰を下ろすという姿勢は群衆を前にして教える師の姿勢です。

今から30年ぐらいまえには、パレスチナでときおりこのような種まきの風景を目にすることができました。農夫は土地を耕すより先に種をまくのですから、日本のように、あらかじめ耕し、畝を作って蒔く種まきとは違い、多くの種は不適当なところに落ちて無駄になってしまいます。けれども運よく良い土壌に落ちた種は豊かな実を結びます。ちょうどこの種のように神の国の福音の告知は広く群衆に向かって行われ、たとえ多くの反対に出遭うとしても、これを迎え入れる人びとの内面で確かに芽をふき、育ち広まっていくでしょう。

マタイ13.10~17のテキスト

▽たとえを用いて話す理由

10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。

11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。

12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。

15 この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』(イザヤ6,9-10参照)

16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

たとえ(1~9)とその解説(18~23)の間に挟まれている10~17節で、弟子たちは「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」とイエスに質問しています。11節と13節のたとえと訳されている語は前述のように謎と言い換えることができます。イエスを受け入れている弟子たちにはたとえとして響くことも、イエスを拒む者には謎のようにしか響かないかもしれませんが、投げかけられた謎は心のどこかにひっかかって、いつか問いかけになり、訴えかけるかもしれません。

11節 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」このたとえは神のみ業についてのものですから、それを受け入れる心構えのある者は理解するにいたることができても、拒否の姿勢を保つ者には謎としか響きません。

16~17 節 神の国の秘密(神秘)は、神がその思いを明かしてくださること(キリスト教ではこれを啓示といいます)によってだけ知り得る、歴史の流れにおける神の決定ですから、啓示が行われる時にしかその意味を知ることはできません。ところがイエスは最終的な神の啓示を与えるために神から遣わされた救い主です。したがって、イエスの弟子たちは旧約時代の預言者や義人たちとは違い、彼らが目にすることも耳にすることもできなかった救い主の言動を、直接見聞することができる恵みに浴した者として幸いだといわれているのです。わたしたちも彼らの証言によってこの幸いにあずかることができます。

マタイ13.18-23のテキスト

▽「種を蒔く人」のたとえの説明

18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、

21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

23節 豊かな実りは、旧約聖書その他のユダヤ文学においても、キリスト教の文献でも、約束された救い主到来の時代の特徴とされていました。紀元前8世紀の預言者アモスは「見よ、その日が来れば……耕す者は刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁をしたたらせる」(アモス 9.13)とメシア来臨の日の豊かさを歌っています。

マタイ13.24-30のテキスト

▽「毒麦」のたとえ

24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

マタイ福音書とルカ福音書は、それより先に記されたマルコ福音書を参照しながら書いているために共通記事が多く、この三冊はヨハネ福音書と区別して共観福音書と呼ばれています。しかし、このたとえはマタイ独特のものです。神の決定的裁きのまえに先走った裁きをすることを戒めるものと思われます。師イエスは人それぞれに回心のときがある、キリストの弟子として召された者は早まって他者を神の国に迎えられない者と判断することなく、忍耐強く待つことを知るようにと戒めてくださっているような気がします。

マタイ13.31~33のテキスト

▽「からし種」と「パン種」のたとえ

31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、

32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

この福音書が書かれたころの教会はまだ歩み始めたばかりで、迫害や多くの困難を抱えた小さな共同体でした。このたとえはその小さな共同体に大きな未来があることを告げて励ましています。パン種は新約聖書一般では腐敗の象徴として用いられていますが(マタイ16.6,11~12;1コリント5.6~8他参照)ここでは通常の意味で用いられています。

マタイ13.34~35のテキスト

▽たとえを用いて語る

34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。

35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「わたしは口を開いてたとえを用い、 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

ここで預言者の言葉とある引用は、詩編78.2の引用です。この詩編78は教会の誕生時代にひじょうに親しまれたものであったらしく、新約聖書にはここのほか24節もヨハネ福音書(6.31)に引用されているだけでなく、いくつかの援用もみられます。

マタイ13.36~43のテキスト

▽「毒麦」のたとえの説明

36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、

38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、

42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

この説明は、イエスの死と復活を体験したあとの教会の時代の解釈だと思われます。37節でイエスの口にのせられている「人の子」は「わたし」の意ですが復活された主です。「悪い者の子ら」は悪魔の一味を指します。毒麦のたとえと投網のたとえはともに審判のたとえですが、もはや24~30節に含まれていた忍耐には触れられていません。ここで語られている裁きは、取り返しのつかない決定的な裁きです。

マタイ13.44~50のテキスト

▽ 「天の国」のたとえ

44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。

46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、

50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

マタイ13.51~52のテキスト

▽ 天の国のことを学んだ学者

51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。

52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

当時のユダヤの社会では、学者といえば聖書と伝承に通じた人を意味しました。ですから新しいものはキリストの道の伝承を、古いものはイスラエルの聖書、すなわちわたしたちにとっての旧約聖書を意味します。キリストご自身から神の国のことを学んだ弟子たちは皆、イエスが業と言葉によって教えてくださったこと、またその光に照らして読み返した旧約聖書の内容を人びとに提供できる者であることが求められています。

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