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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第31回 マタイ16章21~28節

概要

前回は4章1節から始まったガリラヤにおけるイエスの宣教の結び(16.1~20)を読みました。今回はキリストの受難と復活への道の導入(16.21~28)を読みたいと思います。

このパラグラフは次のように展開されています。

  1. 16.21  イエス、弟子たちに初めて受難と復活を予告される。
  2. 16.22~23M  ペトロ、イエスの予告を翻させようと試みて叱責される。
    • 22  ペトロ、イエスをいさめる。
    • 23  イエスはペトロを厳しく叱責し、弟子本来の、キリストの後に従う姿勢に立ち戻るよう命じられる。
  3. 16.24~28  弟子たち一同に向けられたイエス・キリストの教え
    • 24  わたしについて来たい者は、自分の思いを捨て、十字架を担い(すなわち各自にわたしが示す道をを歩んで)わたしに従いなさい。
    •  わたし(キリスト)のためになら失ってよいいのちと、見いださなければならないいのちがあるが、前者をわたしのため失う者は後者を得る。
    •  このいのちは、かけがえのないいのちであり、これを失うならば誰も自力でそのいのちを取り戻すことはできない。
    • 27  終末にわたしが父の栄光を帯びて再び来るとき、各自に相応な報いを与える。
    • 28  ここに出席している者の中には、終末にわたしが再臨するまで死なない者がいる。

今回は前半21-23節のほうをていねいに読むことにします。

マタイ16.21~23のテキスト。


A
21 イエス、弟子たちに初めて受難と復活を予告される。

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた

B
a ペトロ、イエスをいさめる。
22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

b イエス、ペトロを厳しく叱責される。
23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

マタイ16章21節の記述はだいたいにおいてマルコの並行記事(8章31節)に依存していますが、青字で表記してある言葉はマルコには見られません。ところが著者はこの三つの単語(から このとき 始めた) をイエスのガリラヤにおける福音宣教開始を告げる4章17節の冒頭にも同じ順序で記しています。

新共同訳によれば、16章の場合は「このとき」4章の場合は「そのとき」と訳し分けられていますが、ギリシア語では同じ単語が使われています。このような筆致で、著者はたぶん16章21節からも新しいテーマを展開しようとしていることをほのめかしているといえましょう。事実マタイは、これからイエスのエルサレムに向かう歩みについて語り始めます。このときからイエスはエルサレムで自分を待っている受難、十字架上での死、さらには復活について弟子たちに語り始め、彼らとともにエルサレムに向かって行かれるのです。この最初の受難予告は受難物語の序曲です。

では「このとき」とはいつを意味するのでしょうか。前回読んだ場面、ペトロが「あなたはメシア、生きておられる神の子」ですと告白するのを確認されたイエスが、彼を祝福して、教会の礎と定め、その指導の役目を委任すると約束された、あのときをさしています。

「ことになっている」と訳されている単語は文字どおりには「必要がある」あるいは「……ねばならない」、いわば英語の must に相当する強い意味を持つ単語です。聖書では、ある出来事が神の意志ゆえに必ず起きることになっているということを示すのに、たびたび用いられており、ここでもその意味がこめられています。

マタイ、マルコ、ルカ福音書に共通することですが、マタイではこの最初の予告に引き続き17章と20章にも以下のようにイエスがご自分に迫っている受難と復活を予告される場面が見られます。

一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に 引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子 たちは非常に悲しんだ(17.22~23)。

今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学 者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子 復活する(20.18~19)。

最初の予告である今回のテキストには、イエスを抹殺しようという計画の張本人として、長老、祭司長、律法学者たちがあげられています。この三者は当時ユダヤ社会を牛耳ろうと競い合っていたグループでしたが、ことナザレのイエスに関する限りは、一致して敵対者にまわっていました。予告が繰り返されるにつれて、イエスの受難を支持する人の輪が人々すなわちユダヤ人一般へ、さらには異邦人へと広がっています。

21節でイエスは、神の摂理によってご自分が歩まなければならない道を打ち明けられます。イエスはエルサレムに行かなければならず、そこで長老、祭司長、律法学者から苦しみを受け、殺されなければなりませんが、死で終わるのではなく、三日目に復活することも神のみ心なのです。イエスがこれを予告されるのは、それがイエスの天命であるばかりか、彼の後から彼に従うはずの弟子たちの道でもあるからなのですが、次節で明らかになるように、ペトロはそれを理解することも、ましてや受け入れることもできません。彼はイエスこそ神の子メシア(=救い主)と宣言しましたが、彼の抱いていたメシア(油注がれた者=救い主)像は、イエスが今から実現しようとしておられるメシアの生き方とはまったく異質のものだったのです。

どんなに優れた人物でも人間である以上、自分の生きている時と空間の何らかの制約を受けない人はありません。ペトロもイエスに心酔してはいましたが、当時のユダヤ人に共通していたメシア観から解放されるのはイエスが十字架上で死に、墓に葬られてのち、復活され、その復活されたイエスとの出会いという信仰体験を経てからのことでした。この時点では、彼もユダヤ人一般が当時期待していたローマ帝国の支配からの解放をもたらす強いメシア、勝利者であるメシアの出現を夢見ていたものと思われます。

a ペトロ、イエスをいさめる

22節の「いさめる」という訳は、たしかに適切な訳です。日本語では目上に対して叱るとは決して言いませんから。けれども原語は「叱る」という意味の単語で、たとえばイエスが弟子たちをいましめたり(16.20 共同訳は「命じ」)、悪魔を叱ったり(17.18)なさる場合に使われています。「とんでもないことです」と訳されている部分も、原語では「慈しみがあなたにありますように」とあり、それは「主の憐れみによってそのようなことが起きませんように」の意味にも解することができ、そこから「とんでもないことです」とも訳せます。このような表現からも、ペトロにとってイエスの言葉がどれほど衝撃的で、けっしてあってはならないことに思われたかがうかがえます。

さて、ここまで読んで来られたかたの中には、「サタン、引き下がれ(直訳すれば "去れ サタン わたしの後ろに")」というイエスの言葉を見て、どこかでこれに似た言葉に出会ったなと思いあたるかたがおありでしょう。イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた記事には、最後の三番目の誘惑を受けられたイエスが悪魔に向かって「退け(去れ)サタン」と言われたことが記されていました。あの場面でイエスは、もしほんとうに神の子なら、さまざまな不思議な力を使ってそれを証明せよという悪魔のいざないを受けられたにもかかわらず、それを決然と退け、旧約聖書を引用しながら神の意志への従順を示されました。

さらに興味深いことに、あの誘惑の記事の直前の3章17節によれば、イエスが洗礼を受けられた直後に、イエスが神の子であることを告げる天からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と宣言するのが聞こえたとありました。その直後にイエスは、サタンから誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれたのです(4.1)。以上を念頭において16章に戻りましょう。

章17節の、天から送られた「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という宣言に対応するかのように、前回読んだ16章16節には「あなたはキリスト、生ける神の子です」とペトロがイエスを「神の子」と宣言する場面があります。その後、ペトロは受難を予告されたイエスをわきにお連れしていさめようとしました。

b イエス、ペトロを厳しく叱責される。

この場面を味わうためには、ペトロがイエスから招かれて弟子となったときのことを思い出す必要があります。あのとき主はペトロとその兄弟アンデレに、「わたしについて来なさい」直訳すれば「さあわたしの後ろに」と言われました。マタイを弟子に召された場合もキリストは彼に「わたしに従え」と言われました。マタイ福音書を通じてイエスが弟子に求められる基本的姿勢はキリストの後ろからその足跡をたどる姿勢です。「イエスをわきにお連れして、いさめ(叱り)始めた」というペトロの態度は、たとえ皮相的な善意から出たものであったとしても、弟子としての本分をまったく踏み外した行為だったのです。

イエスはペトロを見つめたのち、本来ならペトロが立っているはずのご自分の後方を見やりながら「退け わたしの後ろに サタン(新共同訳はサタン引き下がれ)。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。「邪魔をするもの」と訳されている名詞は本来「わな」を意味します。イエスご自身も人間としては、前途に立ちはだかる苦難を避けたい望みを感じられなかったわけではありませんから、ペトロの言葉は、イエスにとってもわなや誘惑であったにちがいありません。

宣教の開始のときに悪霊から誘惑されたのと同様、今受難の道の始めにも、イエスは弟子ペトロをとおして誘惑にさらされますが、これをきっぱりと退けられます。かつて悪霊に対しては「退けサタン」と言われたイエスですが、ペトロには「退け わたしの 後ろに サタン」と言われます。弟子としてあるべき場、イエスの後ろに立ってその足跡をたどる者の位置に戻るように促されます。この叱責の言葉には厳しさと同時に、いったんお召しになった者を決して見捨てられない主の慈しみが感じられます。イエスは一度弟子となった者をご自分のがわから切り捨てられることは決してありません。

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」神の思いよりも人間の思いにこだわる弟子は、誘惑者や裏切り者になってしまいます。ペトロは、イエスの教会がその上に築き上げられてゆくために選ばれた者として、弟子に定められた位置である「イエスの後ろ」に立って、十字架に向かって歩んでゆかれるイエスに従い続けねばならないのです。
ペトロの例からわかるように、キリストとわたしたちとのかかわりは一度態度を決めればいいのではなく、いつも今という時を大切に、キリストの歩みに従い続けることが求められています。

マタイ16. 24~28 のテキスト


C 弟子たち一同に向けられたイエス・キリストの教え

24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

24節でイエスはご自分に従おうとする弟子たち一同に三つのことを求められます。

1. 自分を捨て、すなわち自己中心の生き方をやめ、
2. 自分の十字架を背負い、すなわちイエスの十字架が象徴する神の求められることを無条件に受け入れる生き方を引き受け、
3. イエスのあとに従って行くことです。

25節 自分の今生のいのちを救いたいと思って以上のことをおろそかにする者は、まことのいのちを失いますが、いのちがけでイエスに従う者は、永遠のいのちを得ます。

26節 イエスに従うことに比べれば、全世界を手中にすることも無に等しく、いったん失った神のいのちをとり戻すことは人間の力によってできることではありません。

28節 この節は問題の節です。マタイ福音書が書かれた当時、つまり教会が生まれてしばらくの間は、世の終わりが早く来るようにとの期待が多かったことも背景にあったと思われます。今はあまりこだわらずに先に進みましょう。

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