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1.鹿児島の福昌寺にて

結城 了悟(イエズス会 司祭)

聖フランシスコ・ザビエル

鹿児島を訪れるとき暇があれば私は、福昌寺(ふくしょうじ)へ行く。そこには1549年8月、来日した聖フランシスコ・ザビエルの大切な思い出が残っている。

ザビエルは確かに何回もそこへ行った。本堂へ上る階段に座り、出入りする人々にキリストの教えを簡単に説明していた。

島津家の菩提寺でもあった寺院跡に、伊集院城でザビエルに出会った島津貴久(たかひさ)の墓もあり、裏山の裾にそのお寺の院長や東堂の墓が並んでいる。

1999年、ザビエル上陸の450年にあたって、もう一度そこへ行くと僧侶たちの一つの墓前だけに花がささげられていたと気が付いた。近づいてみるとそれはザビエルが知り合った忍室(にんしつ)の墓であった。

キリストの教えを述べ伝えるため燃えていた43歳のザビエルと、死後のことについて心配していた年老いた忍室との間に純粋な友情ができた。ザビエル自身もそれを私たちに伝えている。「この忍室は私とたいへん親しい間柄で、それは驚くほどです。」

忍室の墓前に飾られた花を見て、私はこの2人の友情が何世紀をも越えて私たちに大切な道を教えていると感じた。その後、鹿児島では宣教が禁じられ他の寺の僧侶たちからの反発に遭い、旅を続けるザビエルの心に一時的に態度が変わったが、いろいろの経験のもとに対話が戻った。

ザビエルの紋章
ザビエルの紋章

鹿児島でのザビエルに対して、一番大きなショックは言うまでもなくそれは道を遮る日本語の壁であったと思う。本人は次のようにそれを述べている。「今、私たちは彼らの間に、彫像のように突っ立っているだけです。彼らは私たちについていろいろなことを語り、私たちはおし黙っているだけです。」

しかし、ここにもザビエルの答えがあった。「今、私たちは言葉を習うために幼子のようにならなければなりません。」すでに10年間いろいろの国を巡って、諸民族の全く異なる言語を語りながら活躍したザビエルは、日本語からの挑戦に応じて勉強し、通訳を介して進む。彼の側に謙遜で優れた通事になった*1イルマン・ジョアン・フェルナンデスがいた。鹿児島での禁教令は、彼らに勉強の時間も備えた。

1550年の夏、ザビエル一行は今まで案内者と通訳であった*2ヤジロウの世話に、鹿児島のわずかな信者をまかせて平戸に向かった。「そのときには私たちの一人が、日本語を話せるようになっていました。」とザビエルは説明している。


注釈:

*1 イルマン・ジョアン・フェルナンデス(ジョアン・フェルナンデス修道士)
 スペインで生まれ、リスボンの裕福な商人だったが、1547年、イエズス会に入会し、ほどなくして、ザビエルの一行に加わっている。
 ザビエルは、謙虚な彼を司祭にと思ったが、彼はその申し出を辞退する。日本では1日2回、ザビエルと2人で街頭に立ち、ザビエルの通訳や、教理書を読み上げたりして、福音宣教に力を注いだ。
 彼は、日本で修道士としての生涯をささげた。
*注2 ヤジロウ
 ヤジロウは、ザビエルの手紙では、「アンジロウ」と書かれている。
 イグナチオによってインドに派遣されたザビエルは、さらに東へと宣教の足を延ばした。1547年、マラッカ(マレーシア)で、日本人のヤジロウと出会っている。
 ヤジロウは、薩摩の国の下級武士の出身だったが、かつて自分が犯した大きな罪(一説には、人を殺して日本にいられなくなったといわれている)の赦しを求めて、ザビエルに会いに来た。
 ザビエルは、ヤジロウを紹介され、彼の話すポルトガル語を聞き、理知的で、知識欲旺盛な様子を見て、ヤジロウに、「もし日本に行けば、日本の人々は信者になるだろうか」と尋ねている。ヤジロウは、「すぐにはならないでしょうが、あなたの言われたことについていろいろ尋ね、話されたことが本当に行われているのか、あなたの生活ぶりを見て信者になるか考えるでしょう」と答えている。
 以前から ザビエルは、「新しく発見された日本という島には、理性的な国民が住む」と、商人たちから聞いていた。そして、ヤジロウと出会ったことで、日本へ宣教に赴くことは、神のみ旨ではないか、と考えるようになる。
 ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院で教理を学び、パウロ・デ・サンタ・フェという霊名で、洗礼を受けた。ザビエルと共に鹿児島に上陸し、ザビエルの通訳・案内役を務めた。ザビエルの上洛後は、鹿児島に残ったが、その後はわからない。
 2人の出会いは、東西の宗教の交流だけでなく、互いの思想や文化の門を開くきっかけとなった。

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