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日本キリシタン物語
3.ミヤコへの道
聖フランシスコ・ザビエル
ザビエルたちのミヤコへの旅は、日本の歴史に深い足跡を残した旅であった。この旅は、平戸からミヤコまで1550年の9月後半から12月17日まで、山口での滞在をも数えて3カ月におよんだ。
特に山口から堺までの旅は辛かった。厳しい寒さ、小舟での狭い空間、貧しい食事。しかしザビエルは、自分の計画の最高の目的である内裏に謁見することと、ヤジロウから聞いたミヤコの近くにある大学の世界に入ることを考えて、すべてに耐えていた。
その道では、後で、教会のため大きな助けとなる出会いもあった。ある港で下船する時、堺の有力な商人は、天竺からの旅の者と言われるみすぼらしい姿の外国人を見てかわいそうに思い、自分の知り合いで堺の有力な人物*1日比屋了珪宛の紹介状を手渡した。十数年後、日比屋了珪とその家族は、堺の教会を支える信者になる。
堺のミヤコに居るもう一人の商人*2小西隆佐への紹介状が日比屋了珪から渡され、ザビエルは明るい心で道を続けたが、東寺の門の前に立ったとき夢が崩れ始めた。
photo by:Tony B.
ミヤコは応仁の乱によって幻の町の栄光は様変わりし、焼け跡が強くザビエルの目をうった。門をくぐり町に入って内裏の宮殿を捜すと、さらに大きな打撃を受けた。ザビエルたちは、宮殿を囲む崩れ落ちそうな塀の中に受け入れられなかった。献上品を持っていない貧しい巡礼者は内裏への謁見は許されない。後に話を聞くと、内裏 後奈良天皇には当時政治的な力は全くなかった。小西隆佐の紹介で 比叡山に入ろうとしたが、あれは大学ではなく仏教の一宗派の本山だけであることがわかった、またそこに入るための道もなかった。
1551年1月の中旬、ザビエルたちは平戸への帰路についた。鳥羽で船に乗り鴨川を下って堺に向かっている時、イルマン・フェルナンデスはザビエルの当時の貴重な姿を紹介している。ザビエルは船尾に立ち、次第に遠ざかるあこがれのミヤコに向かい詩編を歌っていた。
イスラエルはエジプトを ヤコブの家はことなることばの民のもとを去り ユダは神の聖なるもの イスラエルは神がおさめられるものとなった イスラエルよ、主によりたのめ
すべての夢が崩れ去ったのに、なぜ勝利の歌を歌うのか。旅の経験や、試練からもっと現実的な宣教の計画が生まれていた。その計画に、今力を注ぐ。前回の理想に基づいた計画と、今の経験から教えられた宣教の道が始まる。神の手が導いていた。堺に種が蒔かれていて、京都ではザビエルの夢が呼びかけになっていた。
- *1 日比屋了珪(ひびや りょうけい)
- 生没年不詳。堺の代表的キリシタン。
1564年受洗。霊名は、ディオゴ。
日本人からは、「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。
茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物。 - *注2 小西隆佐(こにし りゅうさ)[生年不詳-1592年]
- 堺政所を務めたキリシタン。
最初に京都でキリシタンになった一人。霊名ジョウチン。
小西如清と小西行長の父。