home > 時・歴史 > 日本キリシタン物語 > 4.大内文化の夕暮れに
日本キリシタン物語
4.大内文化の夕暮れに
聖フランシスコ・ザビエル
1550年と51年には、大内文化が最後の輝きを映していた。 当時、*1大内義隆は有力な大名の一人で、その主府山口は文化的に京都と肩を並らべていて、中国と韓国との交流も盛んであった。
ザビエルは上京したとき、一時的そこに留まり義隆に謁見したが、当時の活躍はあまり成功を見せなかった。ザビエルは焦っているようであったが京都から帰ったとき、次の宣教活動の候補地に山口を選んだ。
1551年の初春、仲間の喜びのうちに再び平戸に姿を現し、残していた献上品と教皇大使としての証明書などをまとめて山口に戻った。今回、大内義隆との謁見が実り、大名はザビエル一行に宣教の許可をあたえ、住まいとして小さな寺院大道寺を備えた。
ロレンソ了斉
ザビエルは初期のころ市民からあまり知られていなかったので、街角で説教をすることにした。そうしている間、ある日、あとの歴史でみられるように、大切な人物に出会った。平戸の白石出身で*2了斉と言う目の不自由な琵琶法師は、変わった日本語で話す外国人の言葉に耳を傾け、気付かないうちに、彼が述べている総てのものの創造主である唯一の神の存在が了斉の心を照らしてしまった。そしてその教えをもっと詳しく知るために聞きに戻り、いろいろの質問をし、疑問を出した。ついにザビエルの手から洗礼を受け、ロレンソと呼ばれた。肥前のロレンソ了斉はキリシタン時代の一番優れた伝道師であった。
ザビエルは教室を街角から大道寺に移した。すでに訪れる人が多く、その中でも僧侶たちの姿が目立っていた。ザビエルは心より皆を迎え、イルマン・フェルナンデスの通訳により一日中話し合いが続く。宗教的な対話が生まれた。受洗する人々が、今度は活動の協力者となる。インドへ帰ったザビエルは、あの日々の雰囲気を次のように述べている。
「思慮分別があり、自分の救霊にどの教えがよいかを知りたいと切望している人たちとともに苦しむ労苦は、内心に大きな満足をもたらすもので、山口ではまさにそのような経験をしました。」、「私の生涯でこれほどの霊的な満足感を受けたことは決してなかったと、ほんとうに言うことができると思います。」
この言葉を読む人は、ザビエルが宣教を諦めて日本に背を向けインドへ帰ったと言うであろうか。ザビエルを帰らせたのは別の理由であった。
豊後府内の沖ノ浜港にポルトガルのジャンク船が錨をおろしていた。その船長ドゥアルテ・ダ・ガマはザビエルの古い知り合いで、若い大名*3大友義鎮にザビエルの話を聴かせた。義鎮もドゥアルテ・ダ・ガマもザビエルに手紙を送った。ザビエルは、若い大名がキリスト信者になりたいのかと思い、またポルトガル人に会うため府内に行った。しかし、インドのイエズス会から全く便りがなかったので、インド管区の管区長であったザビエルは心配してインドに帰ることにした。出国する前に府内にも福音の種を蒔いた。この度、その種を受けたのは大名 大友義鎮であった。
- *1 大内義隆(おおうち よしたか)[1507.12.18-1551.9.30]
- 大内氏の31代といわれている。
周防権介。8ヵ国の守護を兼ねた。
義隆の時代の山口は、大内氏の最盛期であり、「西の京」と言われ、荒廃した都から西下する公卿も多かった。
1551年3月、山口を布教の根拠地としたザビエルが、義隆に時計などを土産として贈ったことが、『大内義隆記』に記されている。
1551年9月陶晴隆(すえはるたか)の謀叛によって山口は焼亡、義隆は深川(長門市)の大寧寺で自刃した。 - *注2 ロレンソ了斉(りょうさい)[1526-1592.2.3]
- イエズス会の日本人イルマン。
肥前白石(平戸)に生まれた。
目が不自由な琵琶法師で、1551年に山口においてザビエルから受洗。
ザビエル、ヴァリニャーノなどの多数の宣教師たちに重んじられ、初期の宣教に大きな役割を果たした。
1587年の宣教師の追放によって平戸に行き、その後長崎に移り晩年を古賀の教会で過ごし、長崎で亡くなった。 - *注3 大友義鎮(おおとも よししげ)[1530-1587.6.28]
- キリシタン大名で、豊後国主。
1562年から「宗麟(そうりん)」と号する。
1551年にザビエルが、豊後を訪れたことから、イエズス会司祭と親しむようになり、彼らを保護した。1571年、臼杵の教会でカブラルから受洗した。霊名はフランシスコ。
同年、キリスト教の理想郷を夢見て日向に赴いたが、大敗し、臼杵に退いた。以来、豊後の崩壊が始まった。その後津久見の自邸で病のため死去。